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【上村松園】実力で人生を切り拓いた女性画家

上村松園は明治から昭和にかけて活躍した画家です。文化勲章を受賞した初の女性であり、鏑木清方と双璧をなす美人画の名手として活躍しました。
その腕前は天下一品で「松園の前に松園なく、松園の後に松園なし」と称賛されるほど。

彼女の生涯を一言で表すと「闘い」でした。男性優位だった画壇に立ち向かい、己の画力でのし上がったのです。
松園の絵はどれも美しく格調高いですが、描かれている女性たちからは芯の強さを感じます。おそらく画家の人生がそのまま反映されているからでしょう。

この記事では、上村松園について解説します。
松園の美人画が好きな人、日本美術に興味がある人はぜひ最後までご覧ください。


松園の生い立ち

上村松園は強靭な精神と確かな実力で画家としての生き方を確立しました。
彼女の生い立ちを知ることで、作品に対する理解が深まるでしょう。

幼少期からデビューまで

松園の本名は津禰(つね)といい、1875年に葉茶屋の次女として生まれました。父親は松園が生まれる2ヶ月ほど前に亡くなっています。
母の仲子は再婚せず、家業を切り盛りしながら2人の娘を育て上げました。

松園にとっての楽しみは絵を描くこと。幼少期からすでに画力の片鱗をみせており、店を訪れる客は彼女の絵を見て褒めたそうです。
小学校を卒業した松園は、親戚の反対をものともせず京都府画学校に入学しました。仲子は「つぅさんのやりたいことやもん」と娘の背中を押したのです。

松園は画学校で鈴木松年(しょうねん)から絵の基礎を学びます。松年が教職を辞すと、松園はあっさりと退学して師の私塾へ移りました。その後たちまち頭角を現し、1890年には内国勧業博覧会に出品した《四季美人図》で二等賞を受賞する快挙を成し遂げています。
初出品だったにもかかわらず、なんとイギリスから来日していたコンノート殿下のお買い上げとなりました。

3人の師匠から絵を学ぶ

松園は生涯を通じて3人の師匠と出会いました。
1人目は先ほども登場した鈴木松年です。2人目が幸野楳嶺(こうのばいれい)、3人目は竹内栖鳳(たけうちせいほう)でした。

人物画を得意としていた松園は、松年のもとで学ぶうちに「自分が求める絵とズレがある」と感じるようになりました。
そこで松年の許しを得て、幸野楳嶺の門下生となります。しかしわずか2年ほどで楳嶺は亡くなり、その弟子だった竹内栖鳳についていくことに決めました。

竹内栖鳳は幸野楳嶺の弟子のなかでも「四天王」と呼ばれる存在です。長く京都画壇に君臨し、すぐれた画家を輩出しました。松園もそのうちの1人だったのです。

幾多の苦難を乗り越えて

松園は明治・大正・昭和の時代に活躍した画家です。当時の女性の社会的立場は弱く、結婚して家庭に入るのが当たり前とされていました。
職業婦人などほぼいなかったであろう時代に、松園は真っ向から立ち向かいます。男性画家を凌ぐ腕前を持ち、次々と作品を発表しては有名になっていくのです。

1902年には一人息子の信太郎(のちの松篁)を出産し、未婚の母となりました。これは憶測の域を出ないのですが、息子の父親は鈴木松年ではないかといわれています。
シングルマザーという概念すらない時代だったため、肩身の狭い思いをしたことは想像に難くありません。

ましてや松園は並外れた画力の持ち主だったため、しばしば男性画家から妬まれて嫌がらせを受けていました。
たとえば1904年に《遊女亀遊》という作品を発表したところ、鉛筆で落書きされるアクシデントに見舞われています。このような出来事は日常茶飯事でした。

帝展(帝国美術院展覧会)の審査員を経て帝室技芸員になるなど、松園は画壇で評価されていたといえるでしょう。
しかし女性初の文化勲章を受賞したのは1948年、病でこの世を去る前年でした。松園ほどの実力者ならもっと早くてもよかったはずですが、時代の壁は分厚かったのです。

《花がたみ》の魅力

《花がたみ》は1915年の作品で、世阿弥が作ったとされる能の謡曲に由来します。
松園の転換点となった1枚といえるでしょう。女性の内面の苦悩を表現するのに適した画題を探していた松園は、趣味で習っていた能からヒントを得ます。

描かれているのは、謡曲「花がたみ」に登場する女性・照日前(てるひのまえ)。
離れ離れになった恋人・継体天皇への未練を断ち切れず、狂気をまとう様子が描写されています。肩からずり落ちた着物や壊れて打ち捨てられた扇などから、照日前の錯乱ぶりが伝わってくるのではないでしょうか。

照日前の表情を描くにあたり、松園は精神病院へ取材に行きました。実際に心を病んだ患者たちを観察することで、何か得られるものがあると考えたのでしょう。
そこで松園は「彼らの表情は能面に似ている」と気づきます。取材から得たインスピレーションをもとに描き上げた照日前は、確かに狂女じみた顏になっています。

もし作品を鑑賞する機会があれば、照日前の顏をじっくり観察してみてください。
髪の毛や紅葉の細かな描写も美しく、実にみごとです。

日本庭園と紅葉について

秋になると紅葉狩りに行くのを楽しみにしている人は多いのではないでしょうか。
紅葉狩りの起源は奈良時代まで遡るとされています。もともとは貴族が楽しむ行事でしたが、江戸時代には庶民も紅葉を愛でるようになりました。

ところで紅葉狩りはなぜ「狩り」というのでしょうか?
由来は諸説あるものの、動物を狩るときと同じように野山を歩き回ったからだとされています。あるいは貴族たちが紅葉の枝葉を手に取って鑑賞していたからとする説もあります。

私たちが紅葉と呼ぶのは、おおむねイロハモミジ、オオモミジ、ヤマモミジの3種類。
イロハモミジは比較的暖かい場所で見られる種類で、オオモミジは太平洋側、ヤマモミジは日本海側に多いですね。

わたらせ渓谷や奥只見湖など、紅葉の名所は日本各地に存在します。
最近は秋が短い傾向にありますが、季節の移ろいを視覚や肌で感じてみてください。

まとめ:強くたくましく生き抜いた画家

今でこそ女性の画家は珍しくありませんが、松園の生きた時代はそうではありませんでした。彼女が残した功績は、歴史にしかと刻まれています。
ちなみに松園の息子と孫も有名な日本画家になり、親子3代で日本学術員の会員になりました。

この記事で紹介した作品《花がたみ》は、奈良県にある松柏美術館が所有しています。
松園とその系譜を知りたい人は、ぜひ現地を訪れてみてください。


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