巨椋池跡地:蓮
京都の巨椋池は、かつて京都盆地南部に広がっていた巨大な湖です。豊臣秀吉による宇治川の付け替えや干拓事業などにより、現在は完全に姿を消し、広大な農地や住宅地へと変貌を遂げています。
巨椋池の歴史
古代から中世にかけて、京都盆地の南部は、宇治川や木津川の氾濫により、広大な湿地帯を形成していました。その中心に位置していたのが巨椋池です。
巨椋池は、周辺の村々にとって、漁業や農業用水、水運などの重要な資源でした。また、その美しい風景は、貴族や文人たちに愛され、多くの和歌や絵画にも描かれました。
江戸時代に入ると、新田開発や治水事業が進み、巨椋池の面積は徐々に縮小していきました。
明治時代になると、政府は国家プロジェクトとして巨椋池の干拓事業に着手しました。昭和7年、国内初の国営干拓事業として、巨椋池干拓の実施が可決されると、翌年から事業が着工されました。
現在の巨椋池跡地
干拓地は、広大な農地として利用されています。特に、宇治茶の産地として有名です。
巨椋池の名残をとどめるものとしては、以下のものが挙げられます。
地名: 向島、槇島、中書島など、かつて巨椋池に浮かんでいた島の名前が、現在の地名として残っています。
巨椋池干拓記念碑: 干拓事業の偉業をたたえる記念碑が、久御山町に建てられています。
巨椋池排水機場: 干拓地の排水を行うための施設です。隣接する「巨椋池まるごと格納庫」では、巨椋池の歴史や干拓事業に関する資料が展示されています。
宇治川太閤堤跡: 豊臣秀吉が築いた堤防の跡です。
巨椋池の消失がもたらしたもの
巨椋池の干拓は、食糧増産や洪水防止に大きく貢献しました。
一方で、貴重な生態系が失われたことも事実です。
現在、巨椋池の自然再生を目指す活動も行われていますが、完全に元の姿に戻すことは困難です。
巨椋池は、京都の歴史と自然を語る上で欠かせない存在です。その跡地を訪れることで、かつてそこに広がっていた雄大な湖の姿に思いを馳せ、自然と人間の関わりについて考えることができます。
上記は、一般社団法人 農業農村整備情報総合センターが運営する、水土に関する歴史をご紹介するサイトです。