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ゴッホ〈ひまわり〉


フィンセント・ファン・ゴッホ、〈ひまわり〉、1888年、
ロンドン・ナショナル・ギャラリー(出典:wikipedia)(パブリックドメイン)

8月の誕生花、ヒマワリ。
青い空と大輪のヒマワリの組み合わせは、誰もがイメージする「夏らしい」風景と言える。
そんなヒマワリを描いた絵画として、真っ先に連想されるのは、ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵のゴッホの〈ヒマワリ〉だろう。
だが、総数が数百枚にものぼる彼の油彩画の中で、なぜこのロンドン版の〈ヒマワリ〉が、彼の代名詞的存在となりえたのだろう。
そして、そもそも、なぜ彼はヒマワリの花を描いたのか。
その答えを探ってみたい。



①ゴッホとヒマワリ

ゴッホが初めてヒマワリの花を描いたのは、パリに滞在していた頃(1886~88年)だった。

フィンセント・ファン・ゴッホ、〈ヒマワリとバラ〉、1886年、
マンハイム美術館(出典:wikipedia)(パブリックドメイン)

当時の彼は、色彩表現、特に補色の効果の研究のため、様々な種類の花をモチーフに静物画を集中的に制作していた。ヒマワリも、バラなど他の花々と取り混ぜて花瓶に活けられたり、あるいは風景の一部として登場しているが、扱いは小さく、彼にとってはあくまで数多くあるモチーフの選択肢の一つだったのだろう。
そのヒマワリが特別な意味をもって、彼の中で位置を占めるようになるのは1888年、南フランスのアルルに移住してからだった。
強い太陽の光の下で、色彩が明るく輝くアルルの地に、浮世絵に描かれた「日本」のイメージを重ねたゴッホは、ここに芸術家たちの共同生活体(ユートピア)を建設する夢を思い描くようになった。
そして、ユートピアの象徴として、「太陽の花」ヒマワリを選び、生活の舞台となる「黄色い家」を12枚のヒマワリの絵で飾ることを思い付く。
早速、花瓶に活けたヒマワリを前に彼は制作に励んだ。花の数や活け方、背景の色を変えるなど、一枚ごとに異なる工夫を試みた。

フィンセント・ファン・ゴッホ、〈ヒマワリ〉(1枚目)、1888年、
個人蔵(出典:wikipedia)(パブリックドメイン)


フィンセント・ファン・ゴッホ、〈ヒマワリ〉(2枚目)、1888年(第二次世界大戦中に焼失)
(出典:wikipedia)(パブリックドメイン)


フィンセント・ファン・ゴッホ、〈ヒマワリ〉(3枚目)、1888年、
ノイエ・ピナコテーク(出典:wikipedia)(パブリックドメイン)

3枚目までは青系の色を背景に黄色いひまわりを描いていたのに対し、今度は花だけではなく、花器や背景をも含めた全てを黄系の色にしたのである。


フィンセント・ファン・ゴッホ、〈ヒマワリ〉、1888年、
ロンドン・ナショナル・ギャラリー(出典:wikipedia)(パブリックドメイン)

補色の関係にある青と黄の組み合わせなら、互いを引き立て合う。が、黄色同士の組み合わせとなると、単にトーンを変えるだけでは難しい。
そこで、ゴッホは絵の具の塗り方に一工夫を加えた。
背景を薄塗りで、ムラや塗り残しがないようきっちり塗ったのに対して、ヒマワリの花は、濃い色の絵の具を厚く盛り上げるようにして描いたのである。
結果、花は背景から浮き上がって、存在感を示し、縮れた花弁の描写は、画家自身の手の動きと、そこにこめられたエネルギーとを如実に伝えてくる。
彼は、この〈ヒマワリ〉を通して、単にモチーフを画面に再現するだけではなく、自分自身の感情やエネルギーを色彩や筆致に託す術を身につけ始めたのである。

②夢破れて後

〈ヒマワリ〉の連作を描く計画に、ゴッホは熱中した。が、花の時期が過ぎたために、制作は4枚目でストップしてしまう。
10月には、ゴッホの共同生活の呼び掛けに応じ、ポール・ゴーギャンがアルルに到着する。彼は、4枚の〈ヒマワリ〉の中でも、ロンドン版の〈ヒマワリ〉を気に入り、「ゴッホの本質を表した一枚」と絶賛した。
絵に触発され、ヒマワリを描くゴッホの姿を想像し、描いてもいる。


ポール・ゴーギャン、〈ヒマワリを描くファン・ゴッホ〉、1888年、
ファン・ゴッホ美術館(出典:wikipedia)(パブリックドメイン)

画布を並べて制作したり、芸術論を語り合うなど、二人の生活はうまく行っているかに見えた。が、しばらくすると、二人の性格や芸術観があまりにも違いすぎることが明らかになり、軋轢が生じてくる。
ついには12月末、ゴッホは自分の耳を切り落とす「耳切り事件」を起こしてしまい、共同生活は破綻。ユートピア建設の夢も消えた。
ゴーギャンはパリへと去り、ゴッホは自ら精神病院に入院する。
そこで精神病の発作と戦いながら、絵を描き続ける。その中で、彼は自らが描いた〈ひまわり〉の模写も行っている。

フィンセント・ファン・ゴッホ、〈ヒマワリ〉、1889年、
SOMPO美術館(出典:wikipedia)(パブリックドメイン)


フィンセント・ファン・ゴッホ、〈ヒマワリ〉、1889年、
ファン・ゴッホ美術館(出典:wikipedia)(パブリックドメイン)


フィンセント・ファン・ゴッホ、〈ヒマワリ〉、1889年、
フィラデルフィア美術館(出典:wikipedia)(パブリックドメイン)

過去の作品をもとに描く手法は、実物を前にしないと描けないゴッホに、かつてゴーギャンが教えてくれたものだった。
これなら夏以外でも、ヒマワリを描くことができる。
模写するにしても、彼は花の中央に赤い点を加えたり、水色を使ってみるなど、細部に新たな表現の工夫も加えている。
が、彼は3枚でヒマワリを描くことを止めてしまう。
ヒマワリは、彼にとって単なるモチーフの一つではなく、「夢の象徴」だった。
どんなに形をなぞっても、アルルで描いた時のように、前向きな気持ちで描くことはできない。それに気づいてしまったのかもしれない。
そして1890年7月、ゴッホはピストルで自ら命を断つ。享年37歳。
葬儀の際、彼の棺にはヒマワリやダリアなど沢山の黄色い花が入れられたという。

③ゴッホへのオマージュ

ゴッホの死後、その名は急速に広まり、作品の評価も高まっていった。
その中で、彼がかつて夢を託したヒマワリとヒマワリを描いた作品群はゴッホを象徴する存在となり、彼に憧れ、その作品に刺激を受けた多くの画家たちは、自分なりのやり方と解釈でヒマワリを描くことで、彼にオマージュを捧げた。
エゴン・シーレもその一人である。
彼は19世紀末から20世紀初頭に活躍したオーストリアの画家である。クリムトに才能を認められ、独自の歪な線で数多くの自画像を含む人物画や風景画、花の絵を描いた。
彼が生まれた1890年は、ちょうどゴッホの没年にあたっており、そのこともあって、彼はゴッホに並々ならぬ思い入れを抱き、自身をゴッホの「生まれ変わり」とも考えていた。
そんな彼の描いた〈ひまわり〉を見てみよう。

エゴン・シーレ〈ひまわり〉、鉛筆・水彩、1911年、
アルベルティーナ美術館(出典:wikipedia)(パブリックドメイン)

無地の背景に、沢山の花をつけたヒマワリが画面いっぱいに描かれている。
切り花を描いたゴッホと違い、シーレのヒマワリは、地面に根を下ろしている。が、花はうつむき、中には花弁がほとんど落ちてしまっているものもあるし、花よりも大きな葉も黄ばんで、力なく下へと垂れている。
エネルギーが充溢していたゴッホの〈ひまわり〉と異なり、ここにあるのは既に盛りを過ぎ、枯れていこうとしている花の姿だ。
シーレの作品の主要テーマである「生と死」が、この作品の底流にも存在している。

アルルに芸術家たちの理想郷(ユートピア)を作る。
それは、現実には実現不可能な、子どもじみた夢だったかもしれない。
しかし、その夢はゴッホにとって、生きる力を与え、さらに無二の傑作〈ひまわり〉を生み出す原動力となった。
そして、〈ひまわり〉を見た画家たちの心に種を蒔き、彼らが自らの道を開き、新たな作品を生み出すきっかけにもなった。
日本でも、棟方志功が雑誌に掲載された〈ひまわり〉(焼失)の写真を見て、絵の道を志し、ついには独自の「板画」で国民的画家に登り詰めた。
作者自身は死んでも、その思いは、作品を通して生き続け、見る人に何かを語りかけ続けるのかもしれない。

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