近代日本画の美人画の大家、上村松園
江戸末期から明治にかけての女性風俗、そして歴史や文学に材をとったその作品は、凛とした気品としなやかな強さを兼ね備え、見る者の心までが洗われるようである。
しかし、当時、女性は結婚して子供を生むのが普通だったなかで、職業画家になるという選択は、文字通り茨の道だった。男性画家から嫉妬され、しばしば心ない誹謗中傷にさらされた。
作品について、「中身がない」と批判された時には、大いに苦悩し、スランプにまで陥ってしまったほどだった。
が、悩みに悩み、苦しんだ末、彼女はあるヒントを見いだして、大きく成長し、<序の舞>をはじめとする珠玉の作品群を生み出していくに至る。
今回は、彼女にとって転機となった作品〈花筐〉に焦点をあて、松園が己の道を見いだしていく、その過程を追ってみたい。
①京都の「天才少女」
上村松園は、1875年、京都で生まれた。
両親は葉茶屋を営んでいたが、父は松園が生まれる前に亡くなったため、母に女手一つで育てられた。
幼い頃から絵を描くこと、特に人物を描くのが大好きだった松園は、学校でも家でも絵を描いてばかりいた。
友人から頼まれて描くこともあったし、店に客として出入りする絵師や画学生たちも彼女を可愛がり、絵手本を持って来てくれる者もいた。
松園にとって最も幸運だったのは、「絵を学びたい」「もっと上手くなりたい」という自分の思いを、母が理解し、後押ししてくれたことだったろう。
1887年、母は親戚や知人の反対の声を押しきり、12歳の松園を京都府画学校に入れてくれた。
が、入学はしたものの、学校のカリキュラムが合わず、不満を燻らせた松園は、師事していた鈴木松年の画学校退職に伴い、わずか一年で退学してしまう。
その後は松年の画塾に通いながら勉強を続け、「松園」の雅号も彼から貰う。
そして1890年、15歳の時、第3回内国勧業博覧会に〈四季美人図〉を出品し、松園は画家として正式にデビューする。さらにこの作品が来日中のイギリスの王族コンノート公に買い上げられたことで、「上村松園」の名は、画壇に広く知られることとなった。
②苦悩
「天才少女」と呼ばれ、華々しいスタートを切った松園だったが、それ故に、しばしば嫉妬や中傷の的ともなった。
1904年には新古美術展に出品した作品に鉛筆で落書きをされる事件まで起きた。描き直すことを勧められたが、松園は「そのままにしておく」ことを主張して譲らず、毅然とした態度を貫いた。
やがて大正時代に入ると、画壇の流行も変化していく。
印象派やポスト印象派などの西洋美術や、自然主義文学など、ヨーロッパ文化の動向が次々と紹介され、日本画でも、社会の矛盾、生活の悲惨など現実の問題に目を向けた作品や、リアルな肉体描写が持てはやされるようになる。
それらに対して、浮世絵や円山派など先人たちの伝統に多くを学んだ松園の絵は「うわべだけ」「上品趣味」で中身がない、などと厳しい批判にさらされた。
さすがの松園も、これには堪えた。
ただ見た目の美しさを描くだけではいけない。女性の内面の悲哀を描き表すにはどうしたら良いのか。下手に描けばわざとらしくなる。
いくら流行しているとしても、社会派のテーマは、自分には合わない。生活苦の滲む女性の姿は、自分の描きたいものではない。自分の作品とは呼べまい。
だからと言って、今まで通りのやり方で描き続けることはできない。
どうしたら良い?
松園は悩みに悩んだ。
③<花がたみ>誕生
殻を破るためのヒントを、彼女は謡曲(能楽の詞章(台本))の中に見いだした。
能楽は、歴史や文学、様々な伝承を題材に、その登場人物たちに己の生き様を語らせる。そこには喜びや悲しみ、怒り、恋など様々な感情が籠められ、それらは一定の「型」によって、格調高く表される。
それこそ、まさに松園が求めていたものだった。
もともと、能楽の声楽部分にあたる謡や、能のハイライトシーンを地謡のみで舞う仕舞は、京の裕福な町人たちの間では人気の習い事の一つで、商家生まれの松園にとっても身近な存在だった。1914年からは、自身も、金剛巌に謡曲を習い始めている。
そして翌年、謡曲の世界そのものを題材に、〈花筐〉を描く。
作品の元になった謡曲『花筐』は、ヒロイン照日の前が、天皇位につくことになった恋人の皇子(継体天皇)を追って故郷を飛び出し、狂女となりながらも、ついには愛する男と再会を果たす、という物語である。
画面にはこの一途なヒロイン照日の前の全身像が大きく描き出されている。
彼女は美しい十二単を身にまとい、手には恋人から贈られた形見の品である花籠(花筐)を提げている。
しかし、その様子は、明らかに尋常ではない。目は虚ろで、どこを見ているかも定かではなく、半ば開いた口は笑っているようにも泣きそうに歪んでいるようにも見える。
愛する人に、今一度会いたい。
今の彼女の頭にあるのは、その思いだけだ。その思いをエネルギー源に、彼女は故郷の越前から都のある大和国へと何ヵ月もかけて、こうしてやってきた。
美しく色づいた紅葉に目もくれず、彼女はただただ歩き続ける。
そのような彼女の姿は、気高くすらある。
それは、批判や中傷にさらされ、苦い経験も重ねながらも、信念を胸に自分が選んだ道を進んで行こうとする松園自身とも共通するものがあるかもしれない。
松園は、随筆『青眉抄』の中で、自身の理想についてこのように述べている。
「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところである」
その理想は、ただ先人たちの型を学び、見た目の美しさを描写することに拘るだけではなし得なかった。
人物の「内面」に思いをはせ、それがどのような形で外に現れるのかを見つめることが重要だった。
実際、〈花筐〉誕生に至るまでに、彼女は能面を研究したり、『花筐』を実際に目の前で舞ってもらうだけでなく、精神病院で患者たちを観察するなど、様々な方法で、作品世界や照日の前の内面に少しでも近づこうとした。
その多大な積み重ねに支えられているからこそ、〈花筐〉は傑作であると言えよう。
〈花筐〉の3年後、彼女は同じく謡曲を題材に、より凄絶な情念を表した〈焔〉を発表。さらなる高みを目指し、邁進していくのである。