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フォレストリップ! 日本全国、いちおしの森を集めました Part⑥(神奈川県真鶴半島)



1657年3月2日(当時の暦で1月18日)は、江戸史上最悪の1日。午後2時頃、本郷丸山(現在の文京区)の本妙寺境内から、突如火の手があがり、江戸市中に燃え広がったのです。出火原因は、350年以上を経た今日まで解明されていません。
3日間にわたって燃え盛った炎は、江戸市街の6割を焼き尽くし、10万人を超える犠牲者を出しました。
”日本の歴史上、最も甚大な被害をもたらした火災”と言われる、明暦の大火です……。


明暦の大火を描き表した絵図。ローマ大火、ロンドン大火と並び、世界三大大火のひとつとされる。(https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Meireki_fire.JPG#mw-jump-to-licenseより引用)

忌まわしい出来事ですが、奇しくも江戸の隣の相模国では、この大災禍をきっかけにして、かけがえのない価値を持つ自然遺産が生まれました。
今からご紹介するのは、世紀の災厄と共に誕生し、数奇な運命を辿った、小さな森の物語。その舞台は、相模湾の西の端に佇む小さな漁村、神奈川県真鶴(まなづる)町です。

真鶴の歴史


真鶴の風景。相模湾に面した風光明媚な土地。


真鶴半島は、箱根山の足元で、相模湾にちょこんと突き出た小さな半島。山から半島を見下ろすと、その形が鶴が飛び立つ姿に見えることから、この名がつきました。

真鶴は、古くから本小松石と呼ばれる銘石を産出する地として知られていました。太古の昔、箱根火山の噴火によって形成された安山岩が、日本最高級とも謳われる良質な石材を生み出したのです。
本小松石の採掘業の歴史は古く、その起源は平安時代末期まで遡ります。卓越した質の高さが、古今東西、権力者たちの顕示欲を満たしてきたのでしょう、鎌倉の寺社、歴代徳川将軍の墓石など、数多の政治的な建築物に本小松石が用いられてきました。


真鶴半島の先端に突き出す、三ツ石。箱根火山の溶岩が海で冷え固まってできた安山岩の塊。


本小松石の採掘がピークを迎えたのは、江戸時代初期のこと。徳川御三家の指示の下、半島の各所で、いくつもの採石所が造成されたのです。
論を俟たないことですが、このタイプの開発は自然環境に対して甚大なダメージを与えます。地盤を丸ごとほじくり返すわけですから、一度採石所が拓かれると、その周囲の植生は急激に劣化してしまうのです。
実際、1650年代当時の真鶴半島は、茅に僅かな灌木が混じった、貧相な草原で覆われていたと記録されています。矢継ぎ早に採石所が拡張された結果、本来の植物相が完全に崩れ去ってしまった……そんな経緯が容易に想像できます。


戦前の真鶴の森。マツの大木が育っている。(1444.html より引用)


この地が緑を取り戻したのは、1661年のこと。
明暦の大火からの復興が進む江戸の街で、木材の需要が急増したため、幕府の指示の下、近隣諸藩で造林事業が進められたのです。真鶴半島では、小田原藩によって15万本のクロマツ苗が植栽されたと記録されています。

実はコレ、2020年代の環境科学の研究でもその効果が実証された、生態系復元(エコロジカル・レストレーション)の手法と酷似しているのです。
マツは、敏腕の植生修理士。荒れ果てた裸地に素早く根を張って表土の流失を抑え、あとからやって来る植物種の生育地を迅速に用意してくれます。しかも彼らは、上から降ってきた日照を独り占めすることなく、林床の植物に分け与える、懐の深い性格の持ち主。それゆえマツの樹下では、多様性に富む植生が形成され、それが遷移のサイクルを回す歯車となります。
自然の法則に従うと、壊れてしまった植物相を復元させようと思ったら、まずは彼らに頼るのが一番、というわけです。僕の留学先のニュージーランドでも、林業用のマツ人工林を、在来植生の復元サイトとして機能させるマネジメント手法が開発されつつあります。

小田原藩は、知らず知らずのうちに、21世紀の環境科学によって編み出された植生復元の手法を、350年以上も前に実践していたことになります。採石によって強制停止させられていた植生遷移のプロセスが、偶然再起動したのです。
その後いろいろな偶然が重なって、真鶴半島は”数百年スケールの生態系復元サイト”へと変貌していくことになります….。


マツの林。六甲山北麓にて。針状の松葉は、林冠を遮蔽する能力を持たないため、マツの樹冠の下ではある程度の日照が保証される。そのためマツ林の林床では多様性豊かな植生が育っていく。松葉が堆積した土壌は酸性に傾くため、マツの林冠下ではリョウブやツツジ類など、酸性土壌に耐えられる広葉樹が育っていくが、これらの樹種が落葉を堆積させることで、土壌のpHは徐々に上昇していく。そして最終的に、植生が極相へと近づいていく。


それまでただの草原だった土地も、幕府に納める松が植栽されると、たちまち重要な森林保護区になります。造林の後、小田原藩は半島全体を”御留山”に指定し、樹の伐採はおろか一般人の立ち入りまで厳しく制限しました。驚くことに、こうした厳しい規制は、江戸時代が終わる1860年代まで、200年近くにわたって継続されることになります。明治時代になり、半島が皇室の所有に移っても、森自体は”御料林”として引き続き保護の下に置かれました。徳川幕府や皇室など、国家の中枢を担う組織の威信が込められてきた森ですから、その管理には厳格さが求められたことでしょう。


真鶴の森の様相。典型的な照葉樹林の植生。


一般人が森へ立ち入ることが出来るようになったのは、御料林が真鶴町に払い下げられた1952年のこと。小田原藩による植林から、この時すでに300年。江戸初期から昭和へ、外界の歴史年表が4つの時代を跨ぐのを横目に、自然のままの息吹を保ち続けた森の内部の植物相は、いつしか原生的な森林景観を完成させていました。


クスノキが優占する真鶴の森。


”お林”の景観


今日、真鶴半島の森は地元の人々から”お林”と呼ばれています。森が皇室の持ち物だった頃の名残で、”御”という上品な接頭辞が付いているのですが、なんとも心地良い響きの言葉です。
実際林内に足を踏み入れると、森の呼び名が尊敬語に変換されている理由がよくわかります。


クスノキの巨木。クスノキは史前帰化植物と考えられており、本来の真鶴の植生の構成員ではない、という見方が有力。人による植栽から始まった森であるため、真鶴の植生は必ずしも”原生的な”状態ではないことに留意する必要がある。今後、これらのクスノキ林は、スダジイを基調とした森に遷移していくと考えられている。

この森の天井を張っているのは、悠々と枝を伸ばすクスノキの巨木たち。樟脳(クスノキの枝葉や木片を蒸留してつくる結晶。芳香剤、殺虫剤として用いられる)をとる目的で明治時代に植栽されたものです。昭和初期に化学合成品が発明されて以降、樟脳の需要は急激に低下していますから、ここのクスノキ林もなんやかんやで放置されてしまったのでしょう。
皆樹齢150年ほどと考えられますが、巨体から滲み出る厳然たる風格は、数世紀の歳月を生き抜いた古木のそれに近い。クスノキはかなり成長が早い樹ですから、まだ若いうちから実際の齢以上の貫禄を身に付けてしまうのです。
他に目立つのは、スダジイ。海辺の樹特有の、うねりを重ねた幹・枝が骨格となって、重厚な森の天井を支えています。彼らの枝葉が、レース模様のような繊細な林冠を編み込み、それが薄い膜となって森の内部と空を隔てています。クスノキとスダジイの樹冠の色合いのコントラストが、なんとも美しい…。


クラウンシャイネス。木々の枝葉が重なり合うことなく林冠を埋めていく現象。


朽ちた松の巨木。小田原藩による植林から350年以上経ったためだろうか、林内のマツの殆どは寿命を迎えている。彼らは典型的な陽樹で、森が成熟して林内の日照条件が悪くなるとあっさりと姿を消してしまう。成長の早いクスノキが植栽され、遷移が大幅に加速したことで、彼らの居場所がなくなったのだろう。


一般的に、成熟した照葉樹林の林床は、かなり暗くなります。数年ほど前、奈良の春日山原始林(関西では随一の原生的照葉樹林)の核心部に入れてもらったことがあるのですが、地形図にも載らないぐらいの小さな谷に潜り込んだだけで、あたり一面が純度の高い暗がりに包まれて、それはそれは心細い思いをしたのを覚えています。分厚い葉を茂らせた照葉樹たちが、徹底的に日照を遮っていたのです。
しかし同じ照葉樹林でも、真鶴の森ではチョット事情が違います。


クスノキの樹冠の下で繁茂する、イヌビワとアオキ。


遮るものがない海上に、巨大な樹冠をこんもりと載せた丘が突き出ているわけですから、真鶴の森には四方八方から日照が降り注ぎます。それゆえ、その内部はわりあい明るく、植物相も独特なものになっているのです。
ふつう森が成熟すると、植物種同士の競争が一段落して落ち着くため、統率のとれた、どちらかというと物静かな林内植生が成立するのですが、真鶴の森の林床は依然として賑やか。日向でせかせかと急成長するような樹、たとえばイヌビワやクサギの群れが、クスノキの樹冠の下でたむろしたりしていて、何やら騒々しい林内景観です。豊富な日照のせいで、森の熟期が先送りになっているのでしょう、植物たちを観察していると、彼らのむきだしの闘争心が伝わってきます。


夕暮れ時の陽が差し込む、真鶴の森の内部。


照葉樹の樹冠に差し込んだ光の多くは、彼らの重厚な枝葉に絡め取られて、森の緑に吸い込まれてしまいます。それでも夕暮れ時になると、樹冠の僅かな空隙から光が入り込んで、外界の明るみが森の内部に浸透していく。すると、息が詰まるほどに濃厚な緑の視界に、透き通った光の粉が注ぎ込まれて、森一面が幻想的な光彩で包みこまれるのです。薄暮時の森で毎日繰り広げられているはずの、光のショー。
かつて私たちの先祖が、常世(とこのよ、人智を超えた存在が息づく地)と呼んで神聖視していた森……現代の生態学の世界では”原生的な照葉樹林”と呼ぶ森でないと、この景色は見られません。そしてそういう土地は、今の日本にはもう殆ど残っていないのです。


森の奥へと続く県道。真鶴半島の森は、宮脇メソッド(在来樹種を植栽して固有の森林を再生させる手法)で知られる宮脇昭が、自身の育林手法を考案する際のヒントにしたとされている。


魚つき林の価値


真鶴の森は、周囲の海の生態系にとっても、欠かせない存在です。

雨の日の真鶴の森。照葉樹林特有の暗さが際立つ。


森が排出した落葉・落枝が微生物に分解される際、フルボ酸という腐植物質が形成されるのですが、コレが土壌に溶け込むと、鉄と結合してフルボ酸鉄となり、川を伝って海に流れ込みます。このフルボ酸鉄が、植物プランクトンの光合成を助け、海の生態系の基盤が整えられるのです。すると当然、魚類や貝類などの、より高次の消費者のコミュニティも活性化します。
さらに、森の陰影が海面に投影されると、そこは暗所を好む魚の休息場所にもなります。森のシルエットが、魚が忌避する反射光線を遮るため、規模が大きい魚群は森に隣接した海域に多い、という説も提唱されています。

海と森は、お互い密接に繋がった生態系。健康な森が、健康な海を育てるのです。


魚つき保安林の7つの役割。海水中の植物プランクトンは、光合成を行う際、あらかじめ鉄分を取り込む必要があるのだが、彼らの薄い細胞膜は電荷を帯びた(イオン状態の)鉄しか透過しない。海水中の鉄は、多くの場合イオン化していないため、植物プランクトンは海水中の鉄をそのまま利用することができないのである。しかしながら、フルボ酸鉄はコロイドの状態を帯びた鉄(イオンと似た状態)を挟み込んでいるため、植物プランクトンにも利用可能。森の土壌が、海洋生態系の基盤となる鉄分を供給しているのである(251886―4261543―misc.pdf より引用) 。


波風がしぶく海岸で、照葉樹の大木たちが、巨大な樹冠を膨らませている……。かつて日本中の漁村で、当たり前にみられたはずの光景ですが、令和時代にそんな土地を見つけ出すのは至難の業。日本の海岸環境は、その殆どが改変されているためです。
しかしながら、長年にわたって手厚く保全された真鶴半島では、濃厚な蒼みを讃えた巨木の森が、相模湾の縁までせり出しています。森と海の抱擁に、横槍を入れる者はいません。森の豊かさが、そのまま海へと連鎖し、漁村に海の幸がもたらされる。相模湾と照葉樹林、ふたつの”蒼”が抱き合う光景には、こんなにも美しい巡り合わせが宿っているのです。


海岸線から仰ぎ見た真鶴の森。


真鶴半島を遠望すると、樹冠の屋根を葺いた舟のように見えます。海にポツンと浮かぶ舟に、たんまりと載った森。その内部に足を踏み入れると、人の気配を感じさせぬ深みに、圧倒されそうになります。森自体それほど広くなく、枝葉の幕のすぐ後ろには、長閑な漁村の空気が流れているはずなのに、人里離れた原生林にいるかのような、清浄な孤独感を感じます。それでも、この森は漁村の生活に根ざしていて、豊潤な土壌は巡り巡って海の幸となる。
”お林”という呼び名は、森に対する親しみと敬意、畏怖の念を、精確な配合で結付けた言葉なのではないか。


真鶴の森は、「魚つき保安林」にも指定されている。


考えてみると、やはり不思議な運命の悪戯です。採石のせいで疎遠になってしまった森と海が、江戸の災禍をきっかけに邂逅を果たし、その縁を今日まで持続させているのですから。
明暦の大火をきっかけに、壮大な美林が誕生するなんて、一体誰が予想できたでしょう?
歴史のほころびを、数々の偶然と縫い合わせて、その仕合わせを350年にわたって連鎖させる…。私達とは違った時間軸で生きる樹木たちが、遠い未来に向けて贈った、粋な計らい。
真鶴の森は、ソレを受け取るための土地なのです。

<神奈川県立真鶴半島自然公園>


所在地 神奈川県真鶴町
車でのアクセス 
・東京方面からの場合、西湘バイパス石橋ICから国道135号を13km南下し、真鶴駅前交差点で左折、県道739号に入って半島の先端まで進む。
・静岡方面からの場合、伊豆縦貫道・大場函南ICから熱函道路と国道135号を経由して30km、1時間
・県道沿いに無料駐車場が3個所ある(琴ヶ浜トイレ無料駐車場、町営トイレ横、お林展望公園駐車場)。真鶴岬に近い県営みさき駐車場も無料。ケープ真鶴近くの駐車場は有料
公共交通機関でのアクセス
・JR真鶴駅から、ケープ真鶴行きのバスで10分
遊歩道の整備度 運動靴でOK
遊歩道の体力度 森の遊歩道をくまなく巡るなら、2時間ほど必要。海岸部や、岬の突端へ降りる箇所に、急な階段あり。



<参考文献>


伊藤龍星・横田真人・玉田緑・大分農林水産研究指導センター水産研究部(2024)”魚つき保安林の変遷と指定状況、その機能” 大分農林水産研究指導センター研報(水産)No 10-5-11
251886_4261453_misc.pdf

神奈川県森林協会(2021) ”あの森を訪ねて「魚付き林を見に真鶴岬へ」” 
a_manazuru.pdf

真鶴町(2023)”真鶴半島魚つき保安林「お林」”

1444.html

真鶴町お林保全協議会(2019)”お林保全方針〜お林の基本的な考え方〜”

ohayshi-houshin.pdf

正木隆・佐藤保・八木橋勉・櫃間岳・設樂拓人(2024)”老齢大径木の樹冠の大きさと可塑性”日本森林学会誌106巻(2024)5号ja

真鶴町(n.d.)お林保全シンポジウム(議事録)sinpojiumu-gijiroku.pdf

松永勝彦(2000)”森林起源物質が海の光合成物質に果たす役割”日本海水学会誌第54巻第1号_pdf

npo法人森と海の共生・ネットワーク 法人森と海の共生・ネットワーク、名古屋大学大学院生命農学研究科 (n.d.) “豊かな海を育てる森林の役割に
関する研究 “ 2010isamoto.pdf

吉田渓(n.d.)”環境を研究し続けた松永勝彦氏に聞く源流が海を守る理由”
1256807_11186

Jogeir N.Stokland,Juha Siitonen, Bengt Gunner Jonsson (2014)”枯死木の中の生物多様性”


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