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アルチンボルド<ウェルトゥムヌスに扮したルドルフ2世>


ジュゼッペ・アルチンボルド、<ウェルトゥムヌスに扮したルドルフ2世>、1591年頃、スコークロステル城(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

写真が無かった時代、その人の生きた姿を後世にまで伝えるためのツールとして、数多くの肖像画が描かれた。その中でも、アルチンボルドの〈ウェルトムヌスに扮したルドルフ2世〉ほど特異なものはないだろう。
それは確かに一人の男の胸から上(バストショット)を描いたものだが、その目鼻などのパーツも胴体も、全てがズッキーニやサクランボなどの野菜や果物によって形作られ、その総数はなんと60種類にものぼる。一つ一つは色鮮やかで瑞々しく、手に取ってみたい、齧ってみたい、とすら思わせる。
現代から見てもこのように斬新でユニークなこの絵は、実は400年以上も昔、皇帝本人への贈り物として描かれたものだった。
なぜ、作者のアルチンボルドはこのような作品を描いたのか。
その物語に迫ってみたい。

①ジュゼッペ・アルチンボルド

ジュゼッペ・アルチンボルド、<自画像>、プラハ国立美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

ジュゼッペ・アルチンボルドは、1526年にミラノで画家の息子として生まれた。いえは、代々ミラノ大司教を出した名門で、家には学者や芸術家が大勢出入りしていた。その中には父の友人で、かつてミラノに滞在していた巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子であるベルナルディーノ・ルイーニもいた。
父やルイーニをはじめとする先輩芸術家たちから、アルチンボルドは間接的にレオナルドの様式と手法とを学んでいく。特に、「対象となる自然物を注意深く徹底的に観察し、その成果を素描する」手法は、後の「寄せ絵」を生み出すにあたって大きな礎となった。
1549年から父と共にミラノ大聖堂のステンドグラスに関わったのをはじめ、ロンバルディア州各地で仕事をするようになる。
そんなアルチンボルドに興味を持ったのが、神聖ローマ皇帝カール5世の弟フェルディナント(後の皇帝フェルディナント1世)だった。
1562年、36歳のアルチンボルドはフェルディナント一世の招きに応じ、宮廷画家としてウィーンへと旅立つ。

②ウィーンの宮廷にて

16世紀の王侯貴族たちの間では、珍しい動植物や優れた芸術品を収集することが流行していた。そして、優れた作品を生み出す芸術家をお抱えにすることは、権威をアピールする重要な手段でもあった。
アルチンボルドも例外ではない。
彼は宮廷画家として、三代の皇帝に仕えたが、その仕事は多岐に渡っていた。
まず、皇帝やその家族の肖像画の制作。

ジュゼッペ・アルチンボルド、<マクシミリアン2世とその家族>、1563年、ウィーン美術史美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

宮廷で開催される祝典や舞踏会においては、ディレクター的役割を務め、衣裳デザインや舞台装置の設計、演出の工夫などを手掛けた。
高い教養と優れた審美眼を持つ皇帝をはじめとする宮廷の人々を驚かせ、楽しませるため、アルチンボルドは自分の持てる知識と技術の全てを仕事に注ぎ込んだ。
彼の代名詞的存在である「寄せ絵」も、このウィーンの宮廷で生み出されたものである。

ジュゼッペ・アルチンボルド、<法律家>、1566年、ストックホルム国立美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

1566年に描かれたこの〈法律家〉は、当時皇帝にアドバイザーとして仕えていた副大法官ヨハン・ウルリヒ・ファシウスがモデルになっている。画中では、髭や鼻、突き出た口など、モデルの顔の特徴が的確に捉えられ、炙り焼きにした鶏肉や魚を組み合わせることで再現されている。また豪華な毛皮に縁取られた上着の下の身体も、よく見れば数冊の本や書類の束で構成されている。
技量と観察力、そして遊び心に満ちたこの作品が発表されると、皇帝はじめ宮廷人たちは大いに喜び、笑ったという証言が残されている。
そして1569年の正月には、代表作として名高い二つの連作〈四季〉と〈四大元素〉を皇帝マクシミリアン2世(フェルディナント1世の息子)に献上した。
これら二つの連作は全て横向きの人物像を「寄せ絵」で表したもので、それぞれ季節や世界を構成する4つの元素の擬人像となっている。2組の連作は互いに関連し合うように構成されており、〈春〉と〈大気〉、〈冬〉と〈水〉など、決まった組み合わせのもと、向き合うようになっている。

ジュゼッペ・アルチンボルド、〈春〉、1563年、サン・フェルナンド美術アカデミー美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)


ジュゼッペ・アルチンボルド、〈水〉、1566年、ウィーン美術史美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

一枚一枚に着目して見ると、まず描き込まれているモチーフの豊富さに驚かされる。<春>には80種類もの植物が、<水>では62種類もの水棲生物が時に縮尺を無視してはめこまれている。パーツは一つ一つが緻密に描き込まれ、アルチンボルド自身の高い教養と知識、技量の確かさをうかがわせる。
また、〈大気〉に描き込まれた鷲と孔雀、〈冬〉の外套に織り込まれた王冠の紋章と「M」の字など、ハプスブルク家やマクシミリアン2世に関わりの深いモチーフも随所に散りばめられている。

ジュゼッペ・アルチンボルド(?)、〈大気(複製)〉、1566年頃?、個人蔵(パブリックドメイン)、(出典:Wikipedia)


ジュゼッペ・アルチンボルド、〈冬〉、1563年、美術史美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

このように多くの種類のモチーフが寄り集まり、一つの形を成す様は、多民族国家であるハプスブルク帝国そのものと言える。
そして、これら全8枚が揃った時、一つのメッセージが浮かび上がる。

「皇帝(ハプスブルク家)は世界を支配し、調和をもたらす。その繁栄は、季節が巡るように恒久的に続いていく」

自然科学に並々ならぬ関心を寄せていたマクシミリアン2世は、この贈り物を大いに気に入った。自分の寝室に飾らせたのみならず、アルチンボルドにコピーを制作させ、外国への贈呈品としても大いに活用した。
特に〈四季〉は、現在残っているだけでも4つのバージョンがある。

③ルドルフ2世とアルチンボルド

1576年、マクシミリアン2世が逝去し、息子ルドルフ2世が即位した。

ヨーゼフ・ハインツ、〈皇帝ルドルフ2世の肖像〉、1594年、ウィーン美術史美術館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

ルドルフ2世は、政治への関心が薄く、錬金術・占星術の研究や、美術品や珍品の収集に熱中したことから「変わり者」と見なされていた。が、一方では「学問と芸術の庇護者」として知られ、彼が1583年に遷都したプラハには、多くの芸術家や科学者が集まった。
アルチンボルドもその一人で、珍品の買い付けなども担当して、皇帝のコレクションの充実に貢献。その功績から、1580年には爵位を授けられた。
1587年、アルチンボルドは宮廷画家の職を辞し、故郷ミラノに帰還するが、ルドルフ2世との良好な関係は続いた。
1591年には〈ウェルトゥムヌスに扮したルドルフ2世の肖像〉を描きあげ、プラハの皇帝に贈呈している。

ジュゼッペ・アルチンボルド、<ウェルトゥムヌスに扮したルドルフ2世>、1591年頃、スコークロステル城(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

ウェルトゥムヌスとは、古代ローマの神で、四季の移り変わりと農作物を司る。ウェルトゥムヌスは変身能力も持ち、この絵は皇帝ルドルフ2世に変身した瞬間を描いたものとされる。
作中にはキャベツや洋ナシ、さらには白ナスやカボチャなど新大陸から入ってきた珍しいものまで、60種類もの野菜や果物、花が描き込まれ、四季全般が表されている。また、正面像として描くことで、万物を支配する皇帝の統治とそれが永遠に続くことを讃えている。
つまりは、かつて父帝マクシミリアン2世に捧げた二つの連作に込めたのと同様のメッセージが、一枚の中に集約されている。

作品を受け取ったルドルフ2世は大喜びし、アルチンボルドに貴族の最高位であるパラティン伯の地位を与えた。
その翌年、アルチンボルドは腎結石によってその生涯を閉じる。67歳だった。

卓越した技術。幅広い知識と、それを自在に使いこなす発想力、そして揺るぎない信念(美学)。
これら3つを兼ね備えていたアルチンボルドが、その才を大いに発揮し、歴史に名を刻むことができたのは、彼の才と奇想を愛し、強い信頼を寄せた三人の皇帝たちの存在があったからこそだろう。
アルチンボルドも、その信頼に応え、晩年に至るまで文字通り自分の全てを彼らに捧げた。

アルチンボルドが去った後、ルドルフ2世は弟マティアスとの政争に敗れ、失意のうちに1612年に亡くなる。その死後に勃発した三十年戦争で、彼がプラハに集めた膨大なコレクションも、破壊され、散逸してしまう。
〈ウェルトゥムヌスに扮したルドルフ2世〉も、1648年のスウェーデンによる略奪で持ち去られ、現在に至っている。
ルドルフ2世は、錬金術の研究や珍品収集など、趣味にうつつを抜かし、政治を疎かにしてしまった一面もある。が、同時に高い教養の持ち主であり、祖父や父以上にアルチンボルドを重宝し、信頼を寄せた。
〈ウェルトゥムヌス2世に扮したルドルフ2世〉は、そんな二人の結びつきを象徴する作品と言えるだろう。


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