四国の端っこ、秘境の森紀行 その② ~年表の外側で出来上がった人工林~
その①から続く…
怪しげな森
さて、千本山の森に滞在すること数時間。居心地が良すぎて、時間がどんどん過ぎてゆきました。
午前中に入山したはずなのに、気づけばもう夕方。そろそろ車に戻ろう…。そう思って山を降り始めると、周囲の森の雰囲気が一変しました。
なんというか、森が一気に暗くなった。まだ15時台のはずなのに、林内は薄暮時のような薄暗さです。午前中の明るみは嘘のように消え失せ、不気味な空気が漂います。
この不穏な空気を作り出した犯人は、林床に茂る照葉樹たちでしょう。
千本山の中腹は暖温帯に属するため、当地にはスギ以外にもサカキ、シキミ、イヌガシ、ハイノキなどの中高木照葉樹が多く生育します。
彼らは分厚い葉をつけ、巨大な群落を作り、スギの巨木のお膝元を濃い緑に染め上げるのです。
スギの葉も、照葉樹の葉も、分厚い上に色が濃いので、日光の遮断力が非常に強い。彼らによって創り出される千本山の森は、強力な遮光カーテンによって覆われているようなものなのです。
それゆえ、ちょっと日が傾いただけで、森の明度が急激に変化する。
煙たいぐらいに濃い、緑の枝葉の緞帳は、暗闇の流入を大幅に加速させてしまうのです。この現象は、照葉樹が多い西南日本の森ならではのもの。
あとで知ったのですが、千本山の麓、魚梁瀬の谷では、古くからこんな歌が伝わっているそうです。
「ミヤマシキミの実のなる頃は、スギのてんぎょ(てっぺん)で日足(夕焼け)を見るな 谷は暗闇 霧の底」
この歌は、千本山で山仕事をする人へ向けられたもの。
千本山の林床に多いミヤマシキミは、日が短くなる10月ごろに、赤い実をつけます。そんな時期に、山の頂上付近で夕暮れを迎えたら、谷に降りる頃には真っ暗になります。特に、千本山の周囲は深い山岳地帯。谷の反対側の山の影が落ち込んだり、前述の照葉樹たちの攻撃(?)に遭ったりすると、日暮れが進むスピードは格段に速くなる…。
山の地形のトリックと、西南日本の森特有の深みが、人間の時間感覚すら狂わせてしまうのです。先人たちは、このことを経験則として知っていて、戒めていたのです。
上の写真を撮れていることから分かる通り、僕が千本山に行ったのは10月初旬。状況がモロに歌と被ります。森に行く前に、歌を知っておけば、あんな怖い思いはしなくて済んだのか…(笑)。反省。
千本山は人工林
千本山を降りたあと、そこから2時間半運転し、南国市内のレストランで高知中部森林管理署の森下嘉晴さんとお会いしました。
森下さんは、長年森林官として国有林を管理してきた、四国の森のプロフェッショナル。広大な四国山地の森を隅々まで知り尽くしていて、お話していると、その知識の深さに圧倒されました。そして何より、森に対する愛情
がとっても深い。ご自身が管理してきた森のことを、我が子のように語るのです。日本の森は、こんなに素敵な方々によって日々守られているんだなあ…。
森下さんは、千本山を管轄する森林管理署に勤めていたこともあったそう。千本山に行ってきた旨を伝えると、そこから話が盛り上がり、魚梁瀬杉の歴史を語ってくださいました。なんでも、千本山のスギ巨木林は”天然林”ではなく”人工林”である、とのこと。
これを聞いて僕は仰天してしまいました。
千本山のスギの巨木の平均樹齢は、約300年。つまり、300年前に誰かがあの深山に分け入り、スギの植林を行ったのです…。
じゃあ、その「誰か」って、誰…?
7世紀〜8世紀にかけて編纂された万葉集には、杉の植林に関する歌が記載されています。このことから分かる通り、日本人はかなり古い時代から、”植林”という行為を行なってきたのです。
しかしご存知の通り、植林は人が長年山に通い続け、きちんとした管理を行うことよって、初めて意味を持つ事業。植林地は、人が行きやすい山に造成した方が良い。それゆえ、交通手段が発達していなかった時代、植林
はアクセス良好な山で行われてきました。
魚梁瀬杉と同じく、300年〜400年前の植林地が残っている場所は奈良県吉野、京都北山、鳥取県智頭などいくつか存在しますが、前者2つは畿内に近く、後者は主要街道や大河沿い。当時の厳しい交通事情をもっても、比較的到達しやすい土地です。
「林業」という産業的な思惑を背景に行われる植林事業は、とんでもない山奥ではあまり行われないのが普通なのです。
しかし、千本山に関してはその条件からあからさまに外れます。2020年代に入っても、あらゆる高速交通から隔絶された深山。車というエンジン付きの鉄の箱を使っても、めっちゃ行きにくい。300年前であれば、千本山はもはや”到達不可能”なレベルの場所でしょう。
魚梁瀬の気候がスギの生育に適しているとはいえ、こんなにもアクセスが悪い山で、あんなに広大な植林地を造成する必要はあったのか?
一体誰が、どういう意図をもって、あそこまで見事なスギの森を作り上げたのか?
この疑問を森下さんにぶつけると、なんとその答えには平家伝説が関係している、とのこと。
魚梁瀬杉は、いつから”良材”だったのか?
その①でも述べた通り、魚梁瀬杉は質の高い良材として、古くから広く知られていました。しかし、「魚梁瀬の森で良いスギ材がとれる」という噂を1番最初に流したのは誰なのか、はっきり分かっていないそうです。
魚梁瀬杉の名が記録に初めて登場するのは、豊臣秀吉による佛光寺大仏殿建設のとき。ということは、魚梁瀬杉の歴史は、それよりも前の時代に始まるのだ、と考えられます……。
四国山地を縦横無尽に歩き回り、さまざまな伝承を集めてきた森下さんによると、魚梁瀬杉の歴史は1185年に関門海峡で行われた「壇ノ浦の戦い」からスタートする、という説があるそうです。
みなさんご存知の通り、壇ノ浦の戦いは、長きにわたる源平合戦の最後の決戦。この戦いで、20年以上に渡って栄華を極めた平家は滅亡を迎えることになります。平家側であった安徳天皇は、6歳の若さで入水。歴代天皇の中では最年少で、その生涯を閉じることになる……。
…と、ここまでが史実上のお話。
しかし、四国にはこんな伝承が伝わっています。
”壇ノ浦の戦いで入水したのは、実は影武者だった。本物の安徳天皇は、家臣(いわゆる「平家の落人」)とともに瀬戸内海を渡り、四国へと逃げ延びた。そして、落人たちは四国山地の奥へ、奥へ、と進み、阿波の祖谷(いや)に潜伏した。祖谷は、深い山々に隔絶された秘境。源氏の追手から身を隠すにはうってつけだったのである……。
しかし、寒冷な祖谷の気候は幼い安徳天皇の健康を蝕んだ。やがて、安徳天皇は熱病にかかり、京の都の母に再会することも叶わず崩御なさった…。”
上記の伝承は、現在の徳島県三好市祖谷に伝わる、平家伝説のひとつ。祖谷の阿佐家(平家の末裔とされる一族の屋敷)には、平家の軍旗がいまも大切に保管されており、当地の伝承は「最も信憑性の高い平家伝説」として注目されています。
祖谷からいくつも山を越えた先、魚梁瀬には、この伝承の”続き”とされる物語が伝わっています。その内容がこちら(↓)。
”安徳天皇の側近、平教経は、天皇亡き後も、祖谷に住み続けた。ある日、1人の狩人が教経の家を訪れ、「一晩泊めてくれ」と要求してきた。教経は不安に思いつつも、渋々狩人に宿を貸した。
しかし、いざ話してみると、狩人にいくつか不審な点があることに気づいた。所作、言葉遣いから察するに、この狩人は明らかに祖谷近辺の人間ではない。もしかすると、彼は源氏の回し者なのかもしれない…。
不安に駆られた教経は、祖谷の地を去り、さらに南下。四国山地核心部の尾根を縦走し、奈半利川源流の山あいにたどり着いた。
ここで、教経はヤナ(川魚を捕まえるためのすのこ)を川に流し、「このヤナが流れ着いたところに住もう」と決めた。(当時そういった信仰があった)そして、自らの新天地を、「やなせ(ヤナが流れ着いた瀬)」と名付けた…”
魚梁瀬という地名は、平家の落人がつけたものだったのです。
その後、平教経の一団は山深い魚梁瀬の地をせっせと開拓。彼らが亡き後も、その子孫たちは魚梁瀬の山で暮らし続けることを選びました。魚梁瀬特有の深い山々が、追手の進軍を阻み、安息を保ってくれたのです。
急峻な地形の魚梁瀬は、農業には不向きな土地です。
そんな中、平家の子孫たちの生計を助けることになったのが、この地に生育するスギの巨木でした。
源平合戦から月日が流れ、いつしか本州では源氏も没落。もう追手の心配をしなくてよくなった…。
そのタイミングで、平家の末裔たちは魚梁瀬のスギを伐り出し、役人に献上。これが好評を呼び、豊臣秀吉の目に留まったのです…。
16世紀中頃、長宗我部元親が土佐を統一すると、魚梁瀬杉の重要性は飛躍的に増し、土佐国全体の重要な収入源となりました。長宗我部氏は、魚梁瀬杉の森を「御留山」に指定し、無秩序な伐採を防止。森林保護に努めました。結果、魚梁瀬の山の各所でスギの巨木林が出来上がったのです。江戸時代になり、土佐藩の政治が始まると、魚梁瀬杉の保護はさらに手厚いものになります。元禄時代、当時の土佐藩主であった野中兼山は、「1本伐れば1本植えよ」という政令(輪伐)を出し、持続的な森林管理を推進しました。以来明治維新までの180年間、魚梁瀬のスギ林は大きな利用圧を受けることなく、その深みを保ち続けたのです。千本山のスギ林も、この頃植林されたものだとされています。
上記の林業施業を支えたのは、魚梁瀬を初めて開拓した平家の一団の、末裔たちだったと考えられます。
「追手から逃げなくてはいけない」という、特殊なバックグラウンドを抱えた人が、敢えて深山に住んだ。そして、その子孫たちが、森を大切に守りながら、林業を行なったこと。これが、山奥深くの魚梁瀬の森で巨大なスギ人工林が出現した理由だったのです。
もちろん、上記の平家伝説が、どこまで本当で、どこまで創作なのかは、今となっては誰もわかりません。しかし、森下さんによると、四国には平家伝説の信憑性を裏付ける証拠がたくさん転がっている、とのこと。
例えば、魚梁瀬地域を含む四国山中には「門脇」「千頭」「小松」という名字の人が多いのですが、この名前は平家にルーツがあります。また、森下さんは、平家の居住を仄めかす記録が残された家柄の人と、高知県香美市で実際にお会いしたことがあるそうです。
追手から逃げながらも、京都での再興を夢見て四国の奥深くを放浪した平家の落人たち。彼らが確かに存在したと示唆する証拠が、800年以上たった現在も残っている。これは、紛れもない事実なのです。
そして、その”証拠”のひとつが、千本山に広がるスギの巨木林だった。寿命が長い樹木は、年表の世界と現代の間に広がる長いブランクを、生きた状態のまま通過することができます。時として、彼らの存在は壮大な歴史ミステリーを解き明かす”鍵”となるのです……。
”最果て”が産み出す物語
いま思い返してみると、四国南東部の森旅では、ダイナミックな景色ばかり見てきた気がします。山肌が幾重にも折り重なった、深い山々。海岸からいきなり迫り上がる四国山地。水平線が丸く弧を描く室戸岬……。
言葉で言い表すのは難しいのですが、見える景色が全部”極端”なのです。そんな中を車で走っていると、「日本の端っこに近づいているんだなあ」という実感が湧いてきます。
四国南東部の先っちょ、室戸岬から大海原を見渡すと、その迫力に恐怖感すら湧いてきます。室戸岬の先の太平洋には、本当に何もありません。直近の陸地は、赤道を越えて4000km以上先、ニューギニア島です。
対岸が望める大阪湾沿いで育った僕は、本気で何も見えないぐらい広い海に、ちょっとした不気味さを感じてしまうのです。
陸地側に広がる、四国山地にしても同じ。
その①で触れたように、四国山地の内部に入れば、「山の向こう側」という概念がなくなります。どこまで行っても、山が深くなるばかり。
山に行っても、海に行っても、「この先、何も無い」を体感してしまう。どこに行っても、自然の深みに呑み込まれてしまう。
四国南東部は、そんな原始性をたたえたエリアなのです。まさに「秘境」「最果て」という言葉が似合うではないか。
40km北上すれば樺太にたどり着く宗谷岬や、120km西に進めば台湾に行ける与那国島と、4000km進んでもなお何処にも行けない四国南東部。どっちが”最果て”でしょうか。国境ではなく、地球規模で見たときの日本の端っこは、室戸界隈なのでは、とも思います。
しかし、そんな”最果て感”を備えた場所だったからこそ、源氏の追手から平家の落人を守る”砦”となれたのでしょう。
そして、公式な歴史年表の外側で、壮大な物語が紡がれ、それらがスギの巨木林という形で現代に現れた…。
歴史の表舞台とも言える、畿内や関東の史跡では、公式年表の中の出来事を真面目に辿ることしかできません。人の生活圏から飛び出し、魚梁瀬の山の奥深くに分け入ることによって、平家伝説という「年表の外側」に合流することができたのです。
秘境を歩くと、地理的にも、歴史的にも、感覚的にも、「普段見ている世界の外側」に到達できるのです。
これこそ、秘境を訪ねることの面白さなのではないでしょうか。
スギの巨木林を見に行ったつもりが、日本史のパラレルワールドに迷い込んでしまった。予告なくこんなにもエキサイティングな体験が飛び込んでくるのだから困ります。
やっぱり森についていくと、旅の質は何倍も高まるのだなあ……。
<謝辞>
この記事の作成には、高知中部森林管理署 猪野々・岡の内森林事務所主席森林官 森下嘉晴氏にご協力いただきました。
本当に、ありがとうございました。
森下氏は、四国の山々の絵地図を描いていて、すべての作品が林野庁のサイトで閲覧できます。
書かれている内容、絵の美しさ等々、どれも素晴らしく、「これ、無料で見て良いの?」と申し訳なくなってしまうレベル……。
ぜひご覧くださいませ。
四国森林管理局 「四国の山々たんね歩記」について
<おまけ 魚梁瀬地域ミニガイド>
四国南東部、魚梁瀬杉の森の魅力に浸りたいなら、ここに行け‼︎とおすすめしたい場所を、独断と偏見で選びました。
①千本山材木遺伝子源保存林
この記事で何回も登場した千本山は、上記の名前でグーグルマップに登録されています。実は、魚梁瀬杉の美林は現在ここにしか残っていません。江戸時代の厳格な保護によって守られてきたスギ美林は、明治維新後〜戦後にかけての乱伐によって、そのほとんどが消え失せてしまったのです。平家伝説と末端と絡み合いながら800年以上続いてきた魚梁瀬杉の歴史は、すでに終焉を迎えているのが現実…。
千本山の森は、「かつて魚梁瀬の地に、スギの美林と共に数百年間生き続けた人々がいた」という事実の唯一の証拠であると言えます。森の美しさだけでなく、その背後のストーリーも感じ取ってくださると幸いです。
所在地 高知県馬路村
アクセス
(徳島方面から)
徳島南部道・徳島沖洲ICから国道55号をひたすら走って90km、高知県東洋町へ。そこから国道493号、県道12号を乗り継いで60km走り、千本山へと向かう。京阪神から行く場合、このルートが距離的には最短。東洋町〜千本山間の60kmは、ほとんどが離合困難な狭い山道。2時間はかかると見積もった方がいい。
(高知方面から)
ちょっとでも良い道を走りたい、という方はこちらのルートがおすすめ。高知道・南国ICから国道55号を50km走って高知県安田町へ。そこから県道12号をひたすら走ってさらに50km、千本山にたどり着く。県道12号は比較的道がよく、馬路村役場までは概ね2車線。馬路村役場〜千本山までの30kmは離合困難(通過に1時間)。
遊歩道の整備度 登山靴必須
遊歩道の体力度 スギの巨木林自体は、登山口駐車場からすぐのところにもあるが、森の奥に行けば行くほど、巨木の密度が濃くなり、森の景色の質が上がっていく。長い上り坂を1時間半ほど登る必要があるが、千本山中腹の「スギ巨木林代表林分エリア」まで行ってみるのがオススメ。
千本山山頂まで行くと、天然林の様相となり、ヒノキやツガ、コウヤマキの巨木も見られる。
冬季の立ち入り
可能だが、山岳部ゆえに降雪、路面凍結の恐れがあるので、天候・道路事情をよくご確認下さい。
駐車場
千本山登山口にあり。
②魚梁瀬森林鉄道
20世紀の前半は、魚梁瀬杉の伐採が急加速した時代でした。当時の木材運搬を支えたのが、魚梁瀬の山じゅうに張り巡らされた「魚梁瀬森林鉄道」。山深い魚梁瀬では、森林鉄道が唯一の動力付きの移動手段でした。木材運搬のみならず、人々の日常の足としても活躍したと言われています。
魚梁瀬森林鉄道が初めて開通したのは、1911年。馬路〜田野間の約20kmから始まりました。その後、その総延長は徐々に伸び続け、1942年には250kmに到達。高知県内では最大の森林鉄道網が完成し、魚梁瀬林業の最盛期を彩ります。しかし、魚梁瀬ダム建設に伴い、1957年に森林鉄道の廃止が決定。1963年には線路の撤去が完了し、以降の木材輸送は自動車によって行われることになります。
廃止から60年以上経ったいまでも、魚梁瀬森林鉄道の遺構は馬路村の各地に残されており、それらは重要文化財に登録されています。
森林鉄道の遺構を眺めながら、魚梁瀬杉の全盛期の時代に想いを馳せて見るのはいかが…?
<参考文献>
・失われた天然杉林〜高知県馬路村〜
・魚梁瀬の由来
・山が輝いた時代 〜森林鉄道が走った村〜
・四国森林管理局ホームページ
・林野庁ホームページ
・「多様性の生物学シリーズ 森のスケッチ」中静透著 東海大学出版会
・国有林経営における魚梁瀬林業の位置付け