【ホラー小説】eaters 第1話
【あらすじ】
【第1話】
「あの……娘の病気を治す薬は、まだできないのでしょうか?」
沼澤小百合は中学生の娘、瀬奈を連れて病院に来ていた。
今、瀬奈は隣の処置室で、月に一度必要な免疫製剤を点滴している。
生まれつき免疫系に異常のある原発性免疫不全症候群。
毎年、一万人の赤ちゃんに対して一人程度がなる、といわれている。
免疫力が異常に低いせいで細菌やウイルスに感染しやすく、単なる風邪も肺炎にまで悪化してしまう。
ちょっとした傷でもすぐに化膿し、治りも遅い。
そのせいで瀬奈は、これまでに何度も入退院を繰り返していた。
六月下旬になると外は強い日差しだが、瀬奈には長袖に長ズボン、つばのある帽子にマスク、薄手の手袋と、度の入っていない眼鏡までさせている。
病院と学校以外、外には出ない。
元美容師だった小百合は、家で瀬奈の髪も切ってやっていた。
小百合がここまで神経質になるのは、すべて娘を守るためだった。
医師の鮫島は電子カルテに入力していた手を止め、小百合に顔を向けた。
数か月前、担当していた医師が定年退職して、新しく担当になったのが、この鮫島だった。
端正な顔立ちで、どう見ても三十代にしか見えない。
こんなに若い医師で大丈夫なのだろうか?
当時の小百合には、不安しかなかった。
顔馴染みの看護師にそれとなく訊いた時、鮫島は四十代後半だと知った。
しかも、遺伝子工学の権威でもあるらしい。
それを聞いて、小百合の不安は一気に消し飛んだ。
鮫島は親身になってくれるだけでなく、確かな腕を持つ医師だというのも、この数か月で思い知らされた。
小百合が頼れるのは、この鮫島しかいなかった。
瀬奈は学校に三日続けて行けたらいいほうで、先月も入退院を繰り返し、まともな学校生活を送れていない。
いったい、いつまでこんな生活を続けさせたらいいのか。
娘の将来に明るい未来も想像できず、小百合の目に涙が浮かんだ。
「お気持ちは分かりますが、残念ながらまだ……」
小百合は訊かなくても分かっていた。
特効薬がないから、難病にも指定されている。
それでも少しでも早く、娘を健康な身体にしてやりたかった。
深いため息を吐いて、うな垂れる小百合を鮫島が見つめた。
悲痛な思いは、鮫島にも十分伝わっている。
「……ですが、一つだけ方法がないとも言えません」
鮫島が言うと、小百合は流れ落ちる涙をぬぐいながら顔を上げた。
生気のなかった目が輝いている。
「まだ認可されてない、開発途中の薬があります」
「それは瀬奈に……娘に効くんでしょうか?」
「今よりも免疫力が飛躍的に向上するのは実証済です。ただし……」
鮫島は言葉を詰まらせた。
「この薬には、副作用がありまして」
「どんな……副作用ですか?」
鮫島の説明に、小百合は言葉を失っていた。
これまで小百合は、何事も娘を一番に考えてきた。
自分のことは二の次だった。
毎日、家の中は隅々まで除菌して、車も乗るごとに車内を除菌する。
外出するたびにシャワーを浴びて、タオルやシーツなど毎日の洗濯量も多い。
娘の制服、夫が仕事で着るスーツも、一度着るたびに毎回クリーニングに出している。
化粧もせず、自分の時間を持てるのは、三か月に一度の美容室くらいだ。
長く伸ばしていた髪も、娘の病気が分かってからは、ずっとショートにしている。
少しでも雑菌を付着させないために。
だからといって、すべてを娘のせいにはできない。
健康な身体で産んでやれなかった自分のせいだ。
小百合は、ずっと自分を責め続けていた。
もしも、健康な身体を手に入れたら、瀬奈は学校にも毎日通えるし、友達もできる。
絶望しかなかった娘の未来に、初めて明るい光が差し込んできた。
問題なのは……副作用。
鮫島は、まだ開発途中だと言っていた。
完成した薬ができるまで、その副作用にうまく対処さえすればいい。
目の前に現れた唯一の希望。
瀬奈を産んだのも、健康な身体で産めなかったのも自分だ。
瀬奈の一生は、自分が責任を持つ。
「先生、お願いします!」
「分かりました。では、点滴が終わったあと、少し休んでからにしましょう」
「ありがとうございます! ありがとう……ございます」
小百合の目に、再び涙が浮かんだ。
しばらくして、処置室から瀬奈が出てきた。
小百合は娘をベンチに座らせて、隣に腰を下ろした。
「瀬奈、大丈夫?」
「うん。いつも通りだよ」
瀬奈は体調が悪くても、それを隠そうとする。
両親を心配させないためだ。
その健気さは、小百合にとって身を切られる思いだった。
小百合はジッと瀬奈を見つめた。
こちらが注意深く見ていないと、体調はすぐに悪化する。
食も細いせいか、同い年の子と比べて背が低く、体重も少ない。
服の上からでも分かるほど、身体は痩せ細っている。
「お母さん、今日の診察はもう終わりだよね?」
いつまでも待合室に向かおうとしない小百合に、瀬奈が訊いた。
「瀬奈、これから新しいお薬を注射してもらうの」
「新しい……って、どんな?」
眼鏡の奥にある瞳が、不思議そうにしている。
「うん……今まで以上に健康になれる薬、かな」
「ふーん。そうなんだ」
少しして、診察室から鮫島が顔を出した。
「沼澤さん、どうぞ」
二人が診察室に入ると、看護師の姿はなかった。
中にいたのは鮫島だけだ。
患者用の椅子に座ろうとした瀬奈に、鮫島は診察台で横になるよう言った。
「お母さんから聞いていると思うけど、これから新しい薬を注射するからね」
「……はい」
瀬奈は、心配そうに小百合に目をやった。
「これで瀬奈も、普通の生活ができるようになるの」
微笑む母親に、瀬奈は言われるまま診察台で横になった。
机の上に、小さなクーラーボックスが置かれている。
そこから鮫島が銀色の細長いケースを取り出した。
ケースに入っていたのは、一本の注射器。
瀬奈に袖を肩まで上げさせ、「チクッとするよ」と注射を打つ。
注射器を抜いて少しすると、瀬奈の身体が小さく痙攣しだした。
「せ、先生……」
「心配ありません。今、薬が効き始めているところですから」
鮫島は事前に説明した通り、落ち着くよう言った。
新薬の説明と副作用、そして注射を打った直後の反応も小百合は聞いていた。
今は黙って見守るしかない。
眼鏡の奥で大きく見開いている瀬奈の目に、異変が現れた。
必死に不安を抑えていた小百合は、思わずマスク越しの口に手を当てた。
瀬奈の瞳の黒い色が、中心から外に向かって広がっていく。
こぼれた黒いインクが、真っ白な紙に染み渡っていくようだった。
瞳の白い部分は黒に侵食され、やがて瀬奈の瞳は、すべてが黒に染まった。