”大きなウソ”は許されるが、”小さなウソ”は許されない
MonMonです。
前回の記事で「20歳の自分に受けさせたい文章講義」の紹介をしました。
今回の記事は、本書の内容の一部抜粋になります。
前回の記事はこちらです。
大きなウソは許されるが、小さなウソは許されない
本書の第3講「読者の椅子に座る」の中で、面白い話があったので紹介します。
本書には、「大きなウソは許されるが、小さなウソは許されない」と書かれています。
特に、文章を書く者は”細部の誤情報”に気を付けなければならないと筆者は主張しています。
「大きなウソは許されるが、小さなウソは許されない」
この言葉は、フィクションの現場で語られることが多いようです。
本書では、ゴジラを例に説明しています。
ゴジラはもちろん、架空の生物です。
しかし、ゴジラについて
「そんな怪獣みたいなやつ、いるわけないだろw」
なんてことは誰も言いません。
もし、そんなことを言ったら、その人が白い目で見られることでしょう。
物語上では、ゴジラのような”大きなウソ”については人は寛容なのです。
それでは、”ゴジラが街を破壊して、自衛隊が応戦する”といったシーンはどうでしょう?
これもまだ問題はありません。
しかし、ゴジラの攻撃から逃げ惑う”主人公”が、コンビニ前にある公衆電話を使い、家族の安否を確認するシーンがあったらどうでしょう?
人はこのような”小さなウソ”については反発します。
「今どきコンビニの前に公衆電話なんてないだろ!!」
「そもそも電話線が生きてるわけないだろw」
「携帯くらいもってんだろw」
「テレカなんて持ってねーよw」
このような容赦ないツッコミが次々と入ることでしょう。
実際、突っ込みどころがあると、物語のリアリティは急激に失われてしまいます。
(上の画像については、「犬が毛布被ってテレビ見るなんてことないだろ」なんてことを言われるのでしょうか?(^_^;))
さて、なぜこのような批判を受けてしまうのでしょうか?
それは、面倒な”細部”にまでこだわっていないからです。
細部を蔑ろにしてしまうと、一気にリアリティは失われてしまうのです。
それは文章も同じであると本書に書かれています。
物語の描写は、細部になればなるほど手を抜けないのである。
(中略)細部をどれだけ大事にできるかは、文章を書く上で最重要ポイントのひとつと考えていいだろう。
(”20歳の自分に受けさせたい文章講義” 208~209貢より)
細部まで表現をするのは、思いのほか面倒なものです。
しかし、その手間を惜しむと、のちに非難されかねないので注意が必要です。
わかること(理解していること)しか書いてはいけない
そもそもなぜ人は、小さなウソをついてしまうのでしょうか?
筆者は、「自らが語ろうとする対象について、理解が浅いから」と主張します。
なるほど、その通りかもしれません。
自分が理解できていないのに、他人に説明などできるわけがありません。
それは音楽だろうが何だろうが、同じだと思います。
つけ焼き刃の知識なんて、すぐにボロが出てしまい、結果としてそれは”小さなウソ”に繋がってしまいます。
だから、情報を発信するには、つけ入るスキがないかどうか考えることも大事なのだと思います。
(しかし、どんなに気を付けても、相手を論破することに生きがいを見出す”正論マン”も少なからずいます。それは相手にしない方が賢明です。)
誰に向けて話すか明確にすることも重要
発信する内容はもちろん、”誰に向けて話すか”ということも明確にする必要があります(私の場合は、あやふやかも?(^_^;))。
例えば、初心者に対して何か説明する時は、”実際のところは、この説明だと不十分で誤解を与えるかもしれないけど、あえて細部を端折って説明する”ことも多いと思います。
初心者であれば、そもそも知識が無いので、良くも悪くもその情報を素直に受け入れるかもしれません。
しかし、”細部を端折った説明”を、その分野のベテランの人が見たとしたらどうでしょう?
「違うだろ~~!このハ〇~~~~~!!!!!★△@!◎」
と怒り狂い、容赦ない指摘や例外をぶつけてくるかもしれません
(・・・すみません、ちょっとふざけました)。
リアル・ネットに関わらず、実際にそのような光景を見たことがある人も多いのではないでしょうか?
指摘された方だって、それなりの”主義・主張やメンツ”があるでしょうから、水掛け論が始まりかねません。
人は、一度振り上げた拳を容易に下ろすことはできません。
「自分が言っていることこそが正しい」と思いがちなので、収拾がつかなくなってしまいます。
そんな面倒なことにならないためにも、読者の対象を予め明確にしておく必要があるのではないでしょうか?
”小さなウソ”を許せない人の特徴
特に本書で述べられていない内容ですが、そもそも”小さなウソ”を許せない人はどのような特徴があるのでしょうか?
私が思うに次の二つが挙げられます。
・その事柄に、誇り(プライド)がある人
・相手より優位でありたい(マウントを取りたい)人
前者は比較的健全です。
その事柄に誇り(プライド)を持っているからこそ、”正しい知識を伝えるべき”という使命感を持っているタイプです。
一方、後者は厄介です。
相手より優位に立つことが目的なので、相手が発信する内容に”スキ”があれば涎を垂らしながら寄ってきます。
あの手この手で相手の評価を下げ、”相対的に自分の評価を上げる”行為に全カロリーを消費することでしょう。
もちろん、比率が違えど、前者と後者の両方の性質を併せ持つ人もいると思います。
もし、"小さなウソ"を指摘する場合があっても、前者でありたいですね。
”批判”と”非難”は違う
せっかくなので、批判と非難についても述べてみたいと思います。
(今日はなんか語ってますね・・・)
これらの言葉は響きこそ似ていますが、意味合いは全く異なります。
批判の意味は次の通りです。
1.物事に検討を加えて、判定・評価すること。
2.人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
3.哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
(デジタル大辞泉より)
私の中では、”批判”は1の意味で使います。
良し悪し云々ではなく、あくまで判定・評価をするという意味です。
”批判”という言葉は2の意味でも使いますが、こちらの場合でも議論の意味合いが強いと思います。
相手を打ち負かそうとする意味合いは含まれないと思います(少なくとも悪意は無い)。
一方、”非難”は次の通りです。
人の欠点や過失などを取り上げて責めること
(デジタル大辞泉より)
明確に相手を攻撃することを目的としています。
よっぽどのことが無い限りは、”非難”という選択は採らない方が無難です。
”建設的な批判”については、受け入れられる器でありたい
さて、世の中の流れとしては、非難・誹謗中傷をしてはいけないという流れになっています。
SNSによる悲しい事件がここ数年頻発していたことを顧みると、その流れは当然であり良いことだと思います。
発信者が、臆することなく自分の考えを言えるようになるのは素敵なことでしょう。
しかし、最近は”批判”もしてはいけないという風潮になっていないでしょうか?
発信者側が、「”批判”であるにもかかわらず”非難”であるかのように受け取ってしまっていないか?」ということです。
批判は、別に発信者を悪く言っているワケではありません。
批判されたからといって、それを非難されたかのように受け止め、批判した相手を悪く言ったりする行為は、第三者の立場から見るとあまり気持ちの良いものではありません。
自分の意見を100%受け入れてくれる、そんな場所を作りたいという気持ちも否定しませんが、時には自分にとって耳が痛くなるような他人の意見とも向き合う必要があると思います。
少し、話は反れてしまいましたが、そんな感じです。
読者「じゃあ、これから遠慮なくモンモンさんの記事や演奏にメスをいれますね♪」
私「・・・え、あの、その・・・、はい・・・( ;∀;)」
まとめ
・大きなウソは許されるが、小さなウソは許されない
・細部こそ細心の注意を払う必要がある
・誰に向けて話すか、対象を明確にする必要がある
・つけ入るスキを与えると、正論マンがやって来る
・毛布を被ってテレビを見る犬はカワイイ
私はブログでジャズピアノに関する情報発信を細々としていますが、当然、思い違いをしていたり間違った発信をしてしまうことがあると思います。
そのため、「ここはこうじゃないかな?」など、疑問点があれば遠慮なくご指摘いただけるとありがたいです。
それでは、また!
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実は、20歳の自分に受けさせたい文章講義の記事については、前回の内容はもちろん、今回の内容を特に書きたかったんです('ω')
しかし、前回の記事の中で書いてしまうと長くなりすぎるし、話も飛びすぎかな?と思い、記事を分けて投稿しました!
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