臨月死産 #10 あれから1年
2023年12月30日に息子を死産し、1年がたちました。
心情や状況で変化したこと、逆に変わらないことについて書いていきます。
1年に当たり―実家とのギャップ
「1周忌」という言葉に抵抗感があるためあえて使いませんが、2024年12月30日で、息子が生まれてから1年になりました。
夫の父からは事前に「花を贈りたい」と連絡がありました。しかし、実の両親からは特に何も言ってこないまま、クリスマスが過ぎました。
たまたま、姉とラインしていた流れで、「義父はお花をくれるのにうちの親は何も言ってこない」と言ったら、姉からは「悲しいことに触れてもいいか迷う」と返ってきました。親も姉も、どうしたらいいのか、分からなかったんですね。
息子のことを「悲しいこと」と総括されることこそが悲しいし、我が子を忘れられているのではないかと感じることこそ、悲しいのです。誰も触れなくても、毎日毎日思い出しているのです。
でも、そんなこと分かりませんよね。私も逆の立場だったら、何をしたらいいか、どんな言葉をかけたらいいか、迷っていたと思います。
手元供養―あまり向き合えず
我が家では、とりあえず手元供養にしています。いずれは夫の一族の墓に入れてもらうつもりですが、夫とは「まだ近くにいたい」で一致しており、期限は決めていません。
居間のミニテーブルに息子コーナーがあります。写真と、骨壺と、へその緒、手形と足形。それに、お花、線香、お菓子。
写真に手を合わせると、いかにも「死者」に対しているという感じがするので、私はあまり向き合えていません。心肺停止を告げられてから1年がたった12月28日は、久しぶりに写真の前で泣きました。夫は、線香を頻繁にたいてくれるし、出張など少し長く家を空けるときには写真に声をかけてくれます。
そういう姿勢の違いから、夫に引け目を感じることもあります。
赤ちゃんや妊婦―胸が「ぎゅっ」から「ちくっ」へ
産後6,7か月後ごろまでは、赤ちゃんや妊婦を見ると、胸がぎゅっとつかまれたように苦しかったです。抱っこひもから垂れ下がっているぷにぷにの足を見ると切なくて。今は「ちくっ」とくらい。変わりました。
10年以上の付き合いの後輩や、お世話になっている先輩に、秋から冬にかけてお子さんが誕生しました。あまり無理なく「おめでとう」と言えるようになりました。人の当たり前の心を取り戻したようでうれしいです。
でも、生まれたばかりの赤ちゃんとお母さんがほほえんでいる写真―これだけは今でも向き合うのが難しいです。だから後輩や先輩にお祝いを言うときは、「写真はまだみれないけど、いつか会いたい」と前置きしました。
そして、息子と前後数ヶ月差でお子さんが生まれた友人とも、いまだに連絡を取ることができません。彼女たちが子どもの話を少しでもしたら、うらやましくて胸がつぶれてしまいそうで、怖いのです。
自分が子どもを無事に産めなかったことの強烈な劣等感も、根深いです。
仕事―少し前向きに
復職してから9か月以上たちました。
当初は仕事でしたいことなど何もありませんでした。「息子を死なせた世界のことなんて、知らんがな」と。投げやりだったし興味を持てませんでした。2、3か月を過ぎると、完全に周囲は私に起こった出来事など忘れたような形で、それと自分の本当の心身とのギャップに苦しみました。
秋に人事面談があり、「展望もなければ望みもないけど、何を言ったらいいのかな」と少し悩みました。結局、いざ面談となると、いい顔をして、さも前向きかのような発言をしてしまいましたが・・。
冬に近づいてきて、やっと「これもやってみようかな?」と最低限の仕事に上乗せして取り組めた仕事がありました。ちょっと回復したのかも、と思い、うれしかったです。
教訓―何もない
これは産後直後から変わらないのですが、私はこの経験に教訓を見つけたくありません。
「子供は私に○○を教えにやってきてくれた」。そういう受容の仕方はあると思うし、「アリ」だとも思います。でも、私はしたくありません。
確かに、この経験で気づいたことはたくさんあります。
妊娠したら生まれるのが当たり前なわけじゃない。死産で悲しむ人は年に2万人もいる。流死産した方や不妊治療している方の中には赤ちゃんや妊婦、家族連れを見るのがつらい方がいる。自分の子供を火葬した親の気持ち。自分がいきなり少数派になる。希望だったものがそのまま反転して真っ暗になる。つらい、というより痛い。不安、というよりは恐怖。赤ちゃんは生きて生まれることだけを考えて生きている。まっすぐに、必死に。
でも、こんなことをアホな私に気づかせるために息子は死ななくてよかった。教訓のために私のお腹に来た子ではない。それは変わりません。