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短編小説「すべてを背負う朝」

 シングルマザーの菜月がこの古民家を選んだ理由は、ただ一つのみだった。家賃が驚くほど安かったからだ。
 1年前の離婚を機に、シングルマザーとなり、2人の子どもを抱えての生活となっていた。足音がうるさいとアパートで苦情を受けた経験もあり、「一軒家なら誰にも迷惑をかけない。」と考えて決めた。けれど、初めて玄関を開けたとき、彼女の胸には重苦しい違和感が湧き上がっていた。

 玄関は北向きで、昼間でも光がほとんど差し込まない。家の中心には閉ざされた中庭があり、仏壇は埃まみれのまま放置されていた。まるで「出て行った人たちの記憶」だけがそこに残されているかのようだった。

「古い家だから、しょうがないよね。」そう呟きながら、菜月は片付けを始めた。住み始めた当初は、家鳴りや湿気臭い空気を「古さ」のせいにして暮らしていた。だが、気になることが増えていった。いつまでたっても消えない、どぶのような臭い。そして夜になると、家全体がまるで、「息をしている」かのような気配をまとった。菜月は毎日、井戸の横に設置してある洗濯機を使っていたが、まとわりつく湿気、井戸の蓋のすきまから見える暗闇を、見て見ぬふりをした。「わたしは母親、こどもたちにとって唯一の、頼るべき存在だ」と自分で自分を奮わせては、洗濯物をささっとかごに移し入れた。

そんなふうに暮らしつづけている中で、遠方に暮らすその家の家人がたまに訪れることがあった。菜月は普段は仏壇などまったく触ることはしなかったものの、埃まみれのまま仏壇を拝むのは、悲しいことだよね、と、仏壇を開けて掃除することにした。そして、奥にしまわれていたおじいさんとおばあさんの遺影を見つけ、それらを向かい合わせに立て直した。その時ふと、背中に視線を感じた気がした。

 家の中の音が激しくなったのはその夜からだ。居間のガラス扉に何かが激しくぶつかるような音。土間で何か金属を引きずるような小さな音、そして気配。物音にはいくらか感覚が麻痺していた菜月だったが、明らかにおかしいと感じるようになっていた。そして、菜月が風呂に一人で入るときだけ、壁がパン!!と鳴る。子どもたちが入る時には決して起こらないその音に、菜月は目をつぶるしかなかった。

「わたしのせいなのかな?」そう考えるたび、心の中にじわじわと恐怖が広がった。もう一度仏壇を開けて、遺影の立てかけ方も、元の位置へ戻してみたりもしたのだった。そんなただならぬ母親の様子を、子どもたちも感じ取っているようだった。菜月は違和感や恐怖に支配されながら、子どもたちの前では明るくふるまっていた。「お母さんが怖がってどうする!」と、自分に言い聞かせながら。

時が経つにつれ、体調が悪化し、菜月の気力はどんどん吸い取られていくようだった。それでもなぜか、この家を離れる気持ちにはなれなかった。いや、離れることが不可能だと思っていたのだ。「家賃が安いから…。」まるで何かに縛られているような感覚。次第に生活は行き詰まった。

体調の悪化や家じゅうに漂う奇妙な気配や臭い、夜中の音ーー菜月の中に膨らむ違和感は確信に変わっていった。それでも彼女は「もう少し頑張れば」と思い、無理に引っ越しを決行することをためらい続けていた。

そんなある日のことだった。朝いつものように掃除をしようと土間に降りた菜月は、そこで足を止めた。井戸のある土間の床に、見覚えのない、「入れ歯」が落ちていた。正式には、奥歯の部分だ。菜月がそれまでに何度その土間を通っても、一度も見たことのないものだ。菜月は一瞬、自分の目を疑ったが、どこからどう見ても、本物の入れ歯であることに気づくと、全身が総毛だった。

「ナンデ、コンナモノガ、ココニ?」
手に取る事すらできずに、ただその場に立ち尽くした。

その瞬間、菜月の脳裏にある光景が頭をよぎった。それは、引っ越してすぐに子どもがぽつりと話した言葉だった。引っ越しの荷物を運びこんでいる最中に、下の子が菜月のエプロンを引っ張って言ったのだーー。
「おかあさん、今あっちで誰かがが寝転んでたよ。」
と、土間の井戸の方を、指さしたのだ。「…?だれもいないよ?…今日中に荷物を運び終わらなくちゃいけないんだから、奏多も手伝ってね。おねえちゃんと一緒にこれ運んで。」そんなふうに聞き流していた。けれど、目の前に転がるこの入れ歯を見た瞬間、その言葉が重なった。

子どもが言っていた「寝転んでいた人」ーー寝転ぶ、、、寝転ぶ?仰向けじゃなくてうつぶせだとしたら。「何かを探している人」の姿なんじゃないの?そして、もしかして、それは、この、入れ歯?
今まで何度もここを通っているのに、なぜ今になってここにあるの?

菜月の胸に湧きあがったのは、確かな恐怖と、底知れぬ不安だった。「子どもたちを守らなければならない。」「この家に居るべきじゃない。」
頭の中でその思いが渦のようにぐるぐると廻った。

そしてゆっくりと入れ歯を見た。
「あ、これ、金属が付いている。」
菜月は思わず呟いた。入れ歯をじっと見つめたまま、その金属の冷たい部分が妙に鈍い光を放っているのに気づいた。心のどこかで『これ』を放っておいてはいけない』という声が聞こえた気がした。

階段の上から『お母さん、ランドセル!』と子どもの叫び声が聞こえてきた。菜月の中で何かが途切れた。
「あ!時間やばいね!お母さんもパート遅れちゃう!」
菜月は入れ歯から目をそらし、静かに階段を駆け上がった。入れ歯は冷たい光を放ちながら、土間の薄暗い床に静かに横たわっている。

(終わり)


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