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菊地和久さんインタビュー#06~MOOVe RECORDSは何をもたらしたか
野間真さん、大山文彦さんらとともに……
「野間さんがお元気そうで何よりです。noteで野間さんの名前を見つけて、元気で良かったなあと嬉しくなって、つい(X(Twitter)で)口出したくなっちゃったんです」
――一時期体調を崩されていたようですが、先日インタビューしたときは、あのよく通る声で元気にお話されていました。
「野間さんの特徴は、あの声ですよね」
――ああ、そうですね。あの声は説得力ありますね。
「そうそう」
――大学時代から、あの通る声で理路整然と話をされてました。それにアイドルに対しても単なる商品として見るのではなく、あったかさがあるというか……
「そこはありますね。人としてどう育てるかというのをきちんと考えてますね。商材としてでなく人として含めてってところは感じました。それと、声というのは人づきあいにとって大事だなと思っていて、あれだけ抜けるような高めのトーンの声で話すので印象がいいな、と当時も思っていました。野間さんとの楽曲制作の部分でやりやすかったのは、譜面を読む “読譜力” があったので……」
――お、そうですか。
「デモ音源を聞かさなくても――デモ音源は今みたいに簡単には送れなくて、郵送でМDとかを送っていたので、少なくとも一日はタイムラグが生じますよね――譜面をファックスで送って、それでもう歌詞を書き始めましたという形がすぐ取れたんですよ」
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――ほう、なるほど。
「それがすごく楽でした。だからどんどん(歌詞の方は)任せていたんですが、(森下純菜さんの)セカンドアルバムあたりで、男目線の都合のいい女の子像ばかりになってしまう感じも見えてきて、最初はそれでもよかったんですが、森下さん本人もちょっと疑問に思うところが出てきたりとか……」
――ああ、そうだったんですか。
「それで、違うタイプの詞を私が書くという形で……周期的に詞を書くのがすごく楽しくなる時期があるんです(笑)」
――ははは(笑)
「それで(詞を)書いていたんですね。最後の2作のシングル(『Pains of Love』と『Love Potion #107』)も私が書いてます。森下さんは、アルバム3枚のプロデュースで終わりましたが、それも当初考えていたとおりなんです。3枚アルバムを出したら相当なことをやっているはずで、ロックバンドの場合はアルバム3枚やると、たいがいベストアルバムやライブアルバムが出て、そこでプロデュースが変わるとかレコード会社移籍になるんです。そういうパターンでバンドは進化していくものなので、だから3枚目以降は考えてなくて、そこでもう終わりにしましょう、という話は作る前からしていたんですね。3枚目(のアルバム)発売直後にバンダイ・ミュージックの ”会社解散” の知らせがありまして……」
――ほう。
「3枚目のアルバム『LOVE POTION』(1999年7月21日リリース)は、発売から2カ月しないうちに "廃盤" が決定してしまったんです。会社解散なので」
――そうだったんですか。そういう経緯もあるのか、現在『LOVE POTION』のCDはけっこう入手困難なんですよ。
「あ、サブスクで聴けますのでどうぞ(笑)」
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(いつしか大山文彦さんの思い出話に……)
「大山先生は、むかしから正論しか言わないタイプで(笑)、誰に対しても “あれはイカン”、“それはないでしょう” ときっちり言っていたイメージがありましたね。初期の頃には、私と野口隆行(たかみゆきひさ)さんと大山先生、野間さんでよくミーティングをしていて、野間さんは、大山さんと野口さんのことを『僕のシンクタンクですから』と言っていました。『談話室 滝沢』で4人で話していた場面とか、つい最近のことのように思い出します」
――ほうほう。
「『フルーツパフェ』の『メロンにメロメロ』(6曲目)の歌詞も、当初はアルバム内のインターバル的な軽めの短い曲…という位置づけで制作していたんですね。野間さんから "メロンにメロメロ" から始まって ”〇〇が〇〇” という単純な言葉遊びの羅列みたいな歌詞のアイデアが出されて、その中に “メロンにメロメロ、ピッチがブルブル”というフレーズがあったんです(「ピッチ」:PHS(Personal Handy-phone System)のこと)。それを大山先生が『「ピッチ」はすぐ無くなって “ピッチがブルブル” なんてもう古くなって、わけわからなくなっちゃうから、それはダメだ』って言って、そこから大きく歌詞が練り直されて、あの曲ができたんですよ(笑)」
――PHSはあっという間に無くなったので、さすが大山さんですね。
「正論をいっぱい言う人だったので、“これはないだろう“ と思ったことはちゃんと指摘していました。こだわりも強かったです。2003年に、台湾留学からの帰国した森下純菜さんのマネジメントをしているとのご連絡をいただきまして4~5年ぶりにお会いしました。そこでいろいろとお話ししまして、新曲を制作することとなり、翌2004年(4月1日)にマキシシングルCD『VERNAL EQUINOX』をリリースしました。2013年には『森下純菜の楽曲を配信販売したい。曲数を多くしたいからMOOVe RECORDS の音源も出してほしい』とお話され、その話から新曲で “3カ月連続配信シングルリリース” を手掛けることになりました(この当時はサブスクがまだ無かったので、ダウンロード販売のみ)」
――たしかに2013年のリリース数はハンパないです(シングル6曲、フルアルバム1枚)。
「その頃は、森下さんのことをきっちりプロデュースしていて、ライブの台本を見せてもらったんですが、MCもぜんぶ一字一句、大山先生が考えてありました。その中に私が絡む話があって、私のことを ”森下純菜の産みの親” って書いてあって、『いくら何でも産んじゃいないから、これはやめましょう』って話をしました(笑)」
―――ははは(笑)
「それと、ライブの後だったか、大山先生が運転していたクルマの中の会話でよく憶えているのが『クラウドファンディングというものを信用しない』と」
――おお。
「今みんな簡単に、“クラウドファンディングでお金を集めて音楽とか写真集とか出しましょう”って言いますが、『あれに関してどう思います?』と聞いたら『いや、ぜんぜん共感できないね』って答えて、『そうですよね』みたいな会話になりまして…… (大山さんいわく)『あれをやってしまったら、“作り手”として、“送り手”としてダメでしょう。やはり自分でお金を集めて出さないと』という話をしていました」
――自らの責任でお金を集めて、作品をつくり届けてこそクリエイターたるもの、と…… 厳しい言葉ですが、大山さんらしいです。
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MOOVe RECORDSは何をもたらしたか
「これはあまり広く知られていないんですが、女性アイドルのインディーズを個人資本で最初にやったのはMOOVe RECORDSですから、そこはちょっと強調していきたいなと(笑)」
――はい、わかりました(笑)(字体を強調体にしておきました↑↑↑)
「95年ぐらいのときは、制服向上委員会とか、ほかにもホリプロがインディーズでCDを2枚ほど出してましたけれど、個人資本というのはなかったです。
レーベルを立ち上げた時は、流通に関してもそれまで私がやってきた人脈しかないので、まず最初にお願いしたのはビジュアル系バンドなどのCDを多く手掛けてきた流通会社だったんですが、営業部長という人が出てきて、私の名刺にある市外局番の「045-」を見て、いきなり『だいいち「045-」ってどこよ』って言われたのがすごく印象に残っています。所在地が都内じゃないということだけで馬鹿にされたんだと思います」
――失礼な態度ですねー。
「今度こういうものを出すので流通をお願いしたいと切り出すと、はなから『そんなの売れるわけないじゃない』と言われて…… それでも、そのルートぐらいしか流通を頼めるところが無かったので頼みました。その営業部長さんとは、その後一度も会ってないですね。インディーズのときに流通をお願いしていたのは合計2社でしたが、発売後はアルテミス・プロモーションの方々が現場で頑張って "手売り" してくれた枚数の方が、流通会社を通しての販売数よりもはるかに上でした」
――ほうほう。
「バンダイ・ミュージックと契約してからはぜんぶバンダイ・ミュージックに販売権が移って営業が動いてくれたので、そこからはずいぶん楽になりました。
バンダイ・ミュージックが解散してからは、その後の流通に関していろんなレコード会社に話を持っていって、それまで何のコネクションもなかった徳間ジャパン(コミュニケーションズ)が話を聞いてくれて、それで徳間ジャパンで森下純菜さんのベストアルバム『rewind -BEST SELECTION-』(2000年4月26日リリース)を出したんです。
徳間ジャパンの場合は、森下純菜さんのアルバムと安めぐみさんのマキシシングル『Private Venus』(2000年8月23日リリース)はメジャー流通で、その他に手掛けた岡部玲子さん、小室友里さんはインディーズの品番で(徳間ジャパンは独占ではない)流通販売だけという契約で何年かやりました。そのような契約形態でも営業の人はキャンペーンの現場にちゃんと来てくれました。そのチームがのちにPerfume(パフューム)を手掛けて、みんな偉い人になっちゃって簡単に連絡が取れなくなったな…というオチ付きですが(笑)」
――まあ ”人生いろいろ” ですよね……
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——振り返ってみて、菊地さんにとってMOOVe RECORDSとはどのような存在だったのでしょう?
「野間さんとは水野あおいライブから始まって、2カ月に1回動員目標を立ててやりましょうと継続的な話になり、次に野間さんから対バン形式でやってみてはどうでしょうと提案され、昼夜別のメニューを作って「プレアイドル」のライブをやりましょうとなって、インディーズ・レーベルの話までにつながったんですね。
その後もレーベルが続いたのは、野間さんの情熱もあって続けてきたのではないかと。アルテミス所属でなく続いた子も何人かいましたけれど、やはりスタッフとしては、野間さんほど新曲CDを3カ月に1回をリリースする、絶えず新しいものを提供するという活動に情熱を傾けた人はいなかったですね。やはりみんな点でしか考えていないので」
――何か1枚CDを出してみたという実績づくりで、継続して出そうと考えている人は少ないんですね。
「こちらもロック的な発想しかないわけで、やはり継続してやっていくものじゃないですか。活動を継続していくからこそその先に何かあるという発想の中で育ってきたので、野間さんにこの(レーベル立ち上げの)話を持ち掛けたのは、何か奇跡的な出会いでもあったと思うんです」
――なるほど。
「いわゆる “アイドル界” で生きてきた野間さんと、それとはまったく異なるロック界の “しきたり” や “ノウハウ” が染みついている私と融合したことが、アルテミス・プロモーションやMOOVe RECORDSが特異な存在になった一つの要因でもあったのだろうと。そして、野間さんと私の“様式美”みたいな考え方には、ジャンルは違えど重なるところが多くあったと思います」
——最後に、MOOVe RECORDSは音楽界にどのような影響を与えたとお考えでしょうか?
「1980 年代のパンク、ニューウェーブからメタルへと、インディーズで作品をリリースするというムーブメントが広がって、90 年前後のバンドブームで『インディーズ』という言葉が一般化しました。
それでもアイドルシーンは、やはり “芸能界” の中で成り立っていて、インディーズとは対極的な位置にあったんですね。5~6年経って、やっと1996 年に『アイドルもインディーズでできますよ』と、本当の意味でのインディーズであるMOOVe RECORDS が世に出て、その後、いくつものレーベルができたので、 “口火を切った” MOOVe RECORDS として存在意義は十分にあったのでないかと思います」
——たしかにそうですね。
「ただ当時、野間さんは『インディーズ』という言葉に “ロック的なもの” をファンに感じさせてしまうのではないか?と懸念していたようで、雑誌などで取り上げていただく際には「インディペンデント・レーベル」という表記にしてもらっていました。オフィシャルな資料でも全部そうなっています」
――当時は野間さんでも「インディーズ」のアイドルという言葉にはまだ抵抗感があったんですね。現在は「インディーズ・アイドル」という言葉も市民権を得たように感じます。その中で、レーベルの今日的な意義についてはどのようにお考えになりますか?
「今は、メジャーもインディーズも――資本や企業間の関係性などもちろん大きく違いますが――アーティストのファンにすればあまり関係無いですし、SNS を巧みに利用して個人の力でもさまざまな発信ができる“個” の時代にもなっています。でも、とくにアイドルに関しては、どれだけ熱心に動いてくれるスタッフがいるかによってその活動内容や存在感みたいなものまで変わってしまうだろうと思っていて、そう考えると楽曲や音源制作を任せるチームという意味でレーベルの必要性は今もあると思いますね」
――力強い言葉ですね。
「来年 (取材当時:2025 年のこと)は野間さんをはじめアルテミス・プロモーションの方々と出会って 30 年で、再来年(2026年)はMOOVe RECORDS 設立 30 周年に当たります。『30 周年』という “括り” で、当時聴いてくれていた人や、CDを買ってくれた人たちが “あの頃” を思い出して、心がジンワリするようなことをやっていきたいですね」
——おお、それはそれは。
「それと…… MOOVe RECORDSは、ここしばらく “開店休業中” みたいに見えていたかもしれませんが(笑)『音源を出したい』という女性アイドルシンガーを募集していますので、どうぞよろしく」
――ほうほう、私からもぜひよろしく……(笑)
「"MOOVe RECORDS 第一弾アーティスト"となった森下純菜さんが今でも活動を続けていることは嬉しく思ってます。以前、会ったときに「歴史は真似できない」という話をして、大山さんも大きく頷いていたんですが、長く活動しているアーティストって積み重ねてきた “歴史” を上手に活用することができると思うんですね。MOOVe RECORDS としても、どんな時代に制作した音源でもその時代に合ったフォーマット(例えば今ではサブスクで聴くとか)で提供していき、聴いてくれる人みなさんにぜひ “歴史” を感じてもらえたら、と思います」
インタビューでも紹介があった森下純菜デビュー8年目を記念してリリースしたマキシシングルCD『VERNAL EQUINOX』(2004年4月1日リリース)
《編集後記》
野間さんのインタビュー内容と菊地さんの記憶とが若干食い違っていることについて、
「よくあるじゃないですか、プロレスラーの『熊本旅館破壊事件』というのがあるんです。新日本プロレスとUWFが提携して、ともかく仲良くやっていこうってその旅館で飲んだ時に大ゲンカになって、旅館丸ごと壊しちゃったという事件があって、プロレスファンみんな知っているし、いろんな人が語っているんですが、みんな言っていることが違うんですよ。それ思い出しちゃって……(笑)
ファンも、言っていることが違うのが面白い。それで想像力が掻き立てられるし、違うことをつなぐことが楽しい。時間も経っているので、記憶によって違う話になっていてぜんぜんいいし、それが面白いと思いますよ」と、にこやかに語りながら、このnoteを応援してくれた菊地さん。
長時間のインタビューをホントにありがとうございました。
そして、この記事を読んでいただいた方々へも感謝申し上げます。
また新たな企画ができたら再開するかな、するかも……⁉