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まず最初に

最初に

このnoteは人に読まれるためでなく、精神科の主治医に自分の過去を振り返ったりして感じたことや、いま現在の暮らしの中で見つけたことをまとめておくために作成した。

ただ、そこには「発達障害者を親に持った苦悩」が書かれている。

発達障害の人間については当事者やあるいはパートナーや、その親の目線で書いたものについては、世の中に最早ありふれているレベルにはなっていると言ってもいい。これは同じ悩みを抱える人を救うヒントが大いに世の中にあるということなので、良い傾向にあると思う。

だが、私がこれから書こうとしているそれはインタネーットの膨大な情報の中に埋もれてしまっているのか。少なくとも、私が同じ立場の人間の考えを求めて今まで調べてきた限りでは見当たらなかった。
私の言葉も何もかも埋もれてしまうのかもしれないが、それでも幾ばくかの意味はあるかもしれないと考えている。


ネットというものは昔こそ現実世界で孤独な日陰者が集まって、日々の鬱屈を晴らしている避難所のような場所だった。
それが今では荒らされた結果、自己顕示欲や正気で言っているのかと疑う思想が跋扈し、もはや孤独な者どころか何者にも優しくない何かになってしまった。
私のnoteがもしも「ご遠慮ください」の意味も分からないような輩に見つかった場合、一部分を切り取って紹介者差別だと言われる事だってあるかもしれない。

なので、あらかじめ私のスタンスを箇条書きにしておく
・本noteはあくまで発達障害者を親に持った一人の人間の視点で綴ったものである
・したがって、発達障害者が子供を持つか否かについて干渉する気はない
・ごく個人的な話のレベルで言うのならば発達障害者の親の子供になど生まれてきたくなかった
・また反出生主義者と思われるのならとんだ誤解である

私は生まれた時、いわゆる親ガチャの時点で敗者だった。冷遇と差別。SOSのサインを出しても何もしようとしない大人。どうして今まで生きてこられたのか不思議なほど、暗く救いようのない人生を送ってきた。
愛着障害と精神病を抱えており、気がふれた病人の戯言と思われようと、この世界は生まれて生きる価値のない地獄にしか思えない。
だからこそ、子供を持つのであれば命の重みに真剣に向き合って欲しい。同調圧力に屈したり、ペットを持つような気軽な感覚で人間の子供なんてものは持つべきではない。


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