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胎動期の独白 私と家族の話

私の育った家庭は母方の祖父母と同居しており、そこに後に私と弟ふたりが加わった。

家族について触れておくと、母が発達障害であり、それから診断こそ受けてないが母を更に改悪した祖母も高確率で発達障害で、ひょっとすると何らかの障害を併発しているかもしれない。祖母に関しては後ほど触れるので今は割愛しておこう。


この二人が主な苦痛の種だったが、私から見て資産家でもなく美人でもなく、性格も頭も悪い女と結婚した祖父も父も控えめに言ってどこかずれた人であり、大人が家に四人もいながら誰も味方にはならなかった。
それどころか、弟と比べて相対的に成長する毎に幼さをなくしていき、愛玩動物でなくなっていった私は理由を聞かれることもなく、大人四人に寄って集って罵倒されることも珍しくなかった。
マシな場合でも祖父は冷ややかな目線を送り、母の過干渉を理解していない父は弟のスポーツには熱心に取り組みながら放任主義とのたまい、家の中よりもテレビの野球中継を熱心に見ている有様だったので、様々な問題の存在そのものに気付くこともなかった。

私は当時でもかなり早めに両親が結婚したにも関わらず、なかなか出来なかった子供だったため、待望の子供だったという。
だが、私の記憶において大事にされた記憶はない。物心つく前の私の行動について、わがまま気ままと言われ揶揄される事はあったが、確たる自我のない時期にしたことを言われても、記憶にございませんとしか返す言葉がない。だが、それほど幼い時期の私と小学校に入ってランドセルを背負っている私も彼女たちの記憶の中では同一で、しつこく私はわがまま気ままと言われた。


だが、経済的ゆとりがそうある訳でもないのに三人も子供を産む方がわがままではないだろうか。
現に病弱な二人目の弟の出産にあたって母は入院したが、祖父母は子供が好きなハンバーグを作るといった発想がない人種で、自分たちの作り慣れて口にあったおひたしだのばっかり作っていて、人の顔色など読めない発達障害者の母の目から見て当時の私はそれはやつれていたと言う。

当時の私は弟さえ無事に産まれれば、何とかましな生活が戻ると思っていた。だが、産まれた弟は未熟児で手がかかり、聞いていた話と違うとばかりに赤ちゃん返りした私は、母にとって聞き分けの悪い不都合な存在でしかなかった。当時こそ、母が発達障害であることを知らなかったが今思えば要はキャパオーバーしていたのだろう。
自分の力量もわきまえず子供を産むなんて、丁稚や女郎など子供の売り飛ばし先があった時代ならどうにかなったのかもしれないが、私の産まれた平成はそんな時代ではない。

自分のことすらまともに出来ない母は、私が小学校の頃にパート先をクビになった事もあった。ただ、そう人より抜きん出て勉強が出来たり、長けた部分がある訳でもないのに母は特に私に対しては自分を大きく見せたがる人で、そんな事があったのを知ったのは成人してからだった。

また、母の発達障害が判明したのは、元々精神を患っていたことも認めようとせず、独特の思い込みの強さでヤブ医者に変な薬を飲まされていると考え、半ば怒鳴り込みにいったのがきっかけである。これに関しては主治医の懐の深さと、恥の多い母を持った不幸の両方を思うばかりである。

そこから一気に母の様々な異常さに気付く事になるのだが、こうして母の障害に気付くのが遅れたのには先ほど軽く話題に出ていた祖母の存在がある。

祖母は子供の頃から物の名前を記憶するのがひどく苦手で「アレをコレしてソコにあるのをソレして」なんて話した内容が指示語だらけである事も日常茶飯事だった。知識のない幼い私はこれをボケているからだと思ったが、今なら別の原因なのだと理解ができる。
また、祖母は本を読むとメクラになると当時小学生の私でも赤面するような差別用語と偏見に塗れたことを口にしていたが、実際のところペットとして認識していた私が本を読んだりするのは祖母にとって思い通りの行動でなく、受け入れがたかったからだろう。他にも毛嫌いしている祖母の姉が、勉強はできた点も多かれ少なかれ関係していると考えられる。
また、祖母が字を書いているところも読んでいるところも見た記憶がないため、LDの可能性も充分にある。
かいつまんで説明すると、少なくとも今の子供であったのなら普通学級には通えていない部類の人間である。

そんなより恥の多い、声の無駄に大きくて厄介で存在の祖母が身近にいたため、母が相対的にまともに見えてしまい、本当に今の主治医に言われるまで母は話の通じない人止まりであったが、思い当たる節があまりにも多く、そうだと認識した瞬間は探してたパズルのピースがやっと見つかったような感じがした。


ただ、母の発達障害が指摘されたのは主治医の時が初めてではなく、それ以前にもあったという。田舎で昔の事だから、今ほど何かできたりはしなかっただろうが、母が自分の障害を正しく知る努力をしていれば(そんな殊勝な人間でないのは百も承知だが)少なくとも私は今より生きやすいはずだった。

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