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【評論ごっこ】高速消費社会の隙に付け入り蔓延るコタツ記事

 私達は人間のことを罵倒するときに、オオカミだのハイエナだのハエだのと、動物を使うことがある。しかし彼らは彼らで自然界の厳しさの中で長い年月をかけて自らの掴んだ武器を強くし、どこかに何かしらの"役割"を見出したり、知識の継承によって生きて子孫を残してきた。そして"食と死"を通じて植物、肉食動物、草食動物、その他が複雑に絡み合いつつも、お互いが影響しあうことで自然界を保っている。だから今日まで絶滅することなく生きており、彼らの生き残り方から私達人間は学べるものがあると私は断言する。そして人間社会において、ハエがいるのなら、それは逆説的に、どこかに彼らが生きて繁殖できるような場所があると"知らせて"くれているのである。私達は彼らのおかげで原因を見つけて対処することが出来る。鬱陶しい奴らだが何らかの「サイン」を出してくれると捉えれれば、いないほうがまずいと私個人は感じる。ので私は基本人を罵倒したいときに生き物を使うことはない。彼らは種全体として、人間よりも美しく、厳しく理不尽な自然の中で力強く生き伸びてきたから。
それでは、こういうことをする人たちのことは……何と表せばいいのだろう。何のサインが出ているのであろう?

 好きな漫画【推しの子】がコタツ記事の餌食になった。しかもとても杜撰なものだった。これから作品のネタバレをすることなくどう杜撰だったか紹介するので、ネタバレだらけの該当noteや記事には飛ばないで欲しい。私はこの作品に是非触れて欲しいと考えている。漫画なら今月中旬に最終巻が出て全16巻で1万円ちょい、アニメなら第2期(全体の前半くらいまで)を放送し終えている。例えばこのコタツ記事、『最終回掲載時に炎上した』という現象を述べたいならSNSの反応を書き写すだけでいいのだ。それだけなら炎上したという認識があるのは事実で、悪評を広めて金を稼いだ卑怯者で済む。反吐が出るが。それで留まっていないから私はこのコタツ記事を取り上げている。

 まず、漫画【推しの子】炎上にはネットの社会的背景、現代のオタク事情(特に水面下にあるもの)や漫画を電子で読む時に使えるアプリの仕様などが絡まっていると私は推測している。Xでは主に「終盤の展開が納得できない」や、「原作者の人格や過去作否定」「アニメやドラマでは展開を変えて欲しい」などといったポストが大きく目立つ形になった。とんでもないエコーチェンバーが起きていた、と私個人は観測している。私は作品名を入れて「終盤展開納得出来た」「この作品は面白かった」とXで発信を続けたが、誰も拡散してくれなかったし、いいねしてくれなかった。でも、実際調べてみると「面白かった」や「よかった」という声もちゃんとあった。つまり、一言でいうと"賛否両論"だったのだ。だって私が賛派なのだから。

しかしコタツ記事のタイトルの出だしはこうだった。

『作品名 終盤展開の問題』


あたかも作品の終盤展開に問題があったかのようになっている。確かに終盤のストーリー展開に"置き去り"になったファンは多数いたようで、そんな人たちが否定的な感想をしていたのが目立った。しかし、作品をきちんと読んでいれば筋が通っていると説明できる。つまり、問題はないのだ。何故最終回でファンがざわついたのかというと、終盤でとった主人公の選択が物語の世界を大きく変えることになったこと。次に、最終回の演出には極力言語が使われなかったからである。私は何故主人公があの選択をとったかちゃんと理解しており、言語化出来る上に、考えるヒントになる話が何巻の何話に収録されているかの情報を落とすこともできる。更に、最終回の演出で言語が使われなかったというのは、逆に言えばきちんと絵を見て、考えるという楽しみ方が出来るのである。その楽しみ方を知らなかった人達が否定的な意見を突きつけたのは、ちょっと残念だと私は思う。その楽しみ方を知らない人達による、原作を書いた人の人格否定、誹謗中傷が目立った。この原作者は相当な地力があり、作品を読めば丁寧な取材や聞き込み調査、ファクトチェックをしたうえで話を書いてあることがわかる。個人的には話がおもんなかったと言え、と思っている。

さて、問題のコタツ記事に戻る。その前に、記事のタイトルには続きがある。

『実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか』

改変とは、つまりストーリー展開を変えろという声を取り上げている。原作ファンからしたらたまったものではない。私は第1巻を根拠に終盤の展開を解説できる。私からすれば、作者はこの終盤の展開に向けて四年描き続けてきたものだと考える。それから一オタクの価値観として、終盤の展開を変えると色々なものが台無しになってしまうと考える。なのでとても受け入れがたい。

ここから本文に入る。

2024年11月14日に完結した人気マンガ『【推しの子】』の最終回には批判、不満の声が続出しました。

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

確かにSNSではリポストやいいねを稼いでたのはその手の意見が多かったと私は捉えている。しかしここに、最終回に賛同している者がいる。誰にも賛同されなかったけど、作品に賛同している者達は確かにいたのだ。せめて賛否両論と書いて欲しいと思う。
タイトルと合わせて未読者にネガティブな影響を与えるのはやめてほしい。そう思うのは作品ファンにとって当然である。

なかでもSNSで多かったのは、「ノベルゲームのエンディング分岐のうちのひとつみたい」ということです。その理由と「今後」のメディアミックス展開に期待できることを、ネタバレありで解説しましょう。

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

この書き方の問題として、SNSであった意見を一つしか取り上げていない。つまり筆者の都合のいい意見しか取り上げておらず、実際この記事は筆者が言いたい放題するだけの記事となっている。

●「ノベルゲームで選択肢を間違えた結果」にも思えるラスト

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

これは記事内の見出しである。
選択肢つきのノベルゲームというのは、読者がデジタルの場で読める作品の途中に選んだものでストーリー展開が変わるものを指す。例えば、物語の序盤で落とし物があったとして、それを拾うか否かの選択肢が出て来る。その選択によってストーリーが分岐し、次の選択肢で更に大きく展開が変わる……ということを繰り返す。エンディングには様々なものがあるのだが、ここではバッドエンド、ノーマルエンド、トゥルーエンドの三つを取り上げる。バッドエンドは名の通り主人公が死んだりと悲しい物やハズレルートを指す。トゥルーエンドと呼ばれるものは基本的に【最高の結果で終わる】物語を指す。例えば、『全員ハッピー満面の笑みエンド』とか。そしてノーマルエンドはトゥルーには満たないがまぁまぁな話の終わり方をする……みたいな、ちょっと説明が難しい。例えるなら、死ぬ運命にあると最初に提示されたヒロインは確かに死んだけど、その他の皆は無事生存みたいな。このように、ノベルゲームには、自分の選んだ選択肢で作品世界や登場人物の運命が変わる、という緊張感や感動があると私は考える。自分の選択肢の結果で登場人物の未来が決まるなんて、大きく感情を動かされるだろう。

しかし【推しの子】は週刊連載の『漫画』である。漫画という媒体で作品のストーリーの主導権は全て原作者にあり、読者は作品を読むか読まないかの選択肢しかとれない。つまり大きく性質が異なる。また、ノベルゲームは少数イラストが存在するが基本的に文章でストーリーは述べられ、進んでいく。物語を盛り上げる要素の一つとして少数のイラストが挿入されている。しかし漫画は地の文の代わりや演出にイラストが使われる。文字と大量の絵で表現する、それが漫画なのだ。

さて、何故例えに的外れな「ノベルゲーム」が出てしまったのかというと実際、ノベルゲームを嗜んだものからすれば"ノーマルエンド"に見える結末になっている。これは説明が難しいのだが……。まぁ、報われなかった者が存在するのである。しかし【推しの子】という作品ではこの終わり方こそがトゥルーエンドなのだ、と原作ファンとしては断言できる。根拠はこの漫画を読み込めとしか言えない。

ここからしばらく記事はあらすじに入るのだが、このあらすじも荒い。そしてあらすじの結論でこう入る(ネタバレ防止の為に一部を加工しています)

「他の選択肢があったように思える」「【ネタバレ防止】報われない者がいた」印象こそが、「ノベルゲームで選択肢を間違えた結果としてのバッドエンド」のように感じられる理由です。

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

でもこれ漫画なんだよな。漫画なんですよ。漫画です。漫画だっつってんだろ。原作者がこうと決めたらこうなるのが漫画だ。あとほかの選択肢があったように捉えられることを私は肯定できる。しかし同時に、他の選択肢の可能性を潰す意図のある演出が存在すると提出し説明できる。ただ問題として、ここには人間の捉え方は個人で大きく差が出る、という理屈ではどうしようもないものを抱えている。じゃあそんな演出駄目じゃない?と言われたら、そんなことはない。と私は断言する。読者は一人一人の生まれも育ちも性別も年齢も何もかも違うし、この作品はそういう境遇の違う人々がぶつかり共に戦う様子を描き続けてきたからである。
次の見出しはこれである。

●【ネタバレ防止】トゥルーエンドもあり得たかもしれない

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

(ネタバレ防止の為に一部を加工しています)

ここの見出しに書いてあることは、作者の持論である。
以下のようなものになる。
・この展開だと特定の章の作中作の存在理由がわからなくなるという主張
・この終わり方ならトゥルーエンド、というものの披露

まず、特定の章で作られた作中作の存在理由は明確に存在する。物語終盤の鍵を握るキャラ達が抱えてきたものを描くため、そしてメインキャラの成長物語や心情描写に大きく貢献した。この説明で足りる。
次に「この終わり方ならトゥルーエンド」だが、前述したとおり作者がきちんとその可能性を潰しているが、一部読者及びこのコタツ記事の筆者が拾えていないだけである。

●単行本の書き下ろしで明かされるかもしれない要素も

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

ここの見出しは事実だが、問題は本文である。ここが大変杜撰なのである。下調べ、フィールドワークをしていない。現代っ子風に言うと、エアプ丸出し。ちなみに漫画は現在15巻刊行されており、「1万円と少々」で買える。最終巻となる16巻は今月中旬に出るが、この記事では15巻までの情報で足りるところを列挙している。このコタツ記事の筆者は買って読んでいないのだ。フィールドワーク1万円は相当安くないか?漫画もこの程度の内容の薄さで書くなら、1日あれば読めると私は思う。

まず杜撰な部分を紹介する。ファクトチェックと言われるものである。

・特定のキャラクターの正体がはっきりされていない
→既刊部分でされている。正体から作中で見せた行動の動機まで明かされている。ちなみに筆者が読解できなかったと思われる、特定の章で作られた作中作の製作中にそれはある。

・最終回で作中グループに名前のない新キャラが居る
→最終回、絵のみで居る理由が説明されている。オーディションと書かれたポスターが描写されている。あとは作中グループがかつて持っていた特徴は作中で描写されていた。上記で出した特定の章や、確か他の章でも。

【推しの子】という漫画は原作者と作画担当で分かれている。原作者が作った話(ネームという漫画の下書きの下書きみたいなもの)を基に作画担当とそのアシスタント達が非常に丁寧で高品質な作画で作品世界を表した。

漫画とは、絵と文字で表現される世界だ。キャラクターの喜怒哀楽、立つ舞台、心情など、様々な描写方法を先人達が見つけ築き上げ、技術が発展し作画環境が向上した、2020年代前半に連載が開始され今年2024年に完結された作品が【推しの子】という漫画である。文字しか読んでいない人?絵が凄いのでじっくり楽しんで欲しい。

このように、下調べもまともにしていない、ということに絶句せざるを得ない。私はこのnoteを金銭問題の無い完全な趣味で運営しているが、この記事の筆者はライターを名乗っており、この記事で何らかの報酬を得ていると推測できる。Xのアカウントのフォロワーは1万人程である。

記事の引用に戻る。

それでも、少なくともマンガでは、【ネタバレ防止】という終わり方がくつがえることはないでしょう。なお、原作者の赤坂アカ先生は集英社オンラインのインタビュー記事で、「エンディングに関しては想定通りに進みました」と語っており、何かの外圧が働いて現状の最終回になったわけではないことははっきりとしています。

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

外圧とは?読者アンケートや売り上げの数字のことだろうか。赤坂アカ先生は確かにこの結末に至る為に描写を積み上げてきた、この作品を読み込んでいてファンの私は感じた。逆説的に言えば、赤坂アカ先生がこの結末にした、というのを読んだ人がよくない方向で捉えかねない書き方をしていないか?と読んでいて私個人は感じる。

次の見出しは以下になる。

『【推しの子】』という作品は「原作改変」自体は否定していない
●あり得る別エンディング、そして現状のラストを肯定する意見も

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

まず本文の引用にうつる。

そのような批判や不満の声が続出したからこそ、実写ドラマ版および映画、はたまたTVアニメの3期(それ以降の4期)で、「別エンディング」を期待する声も出ています。たとえば【ネタバレ防止】といった、まったく異なるトゥルーエンドもしくは【ネタバレ防止】エンドも想像できます。

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

私は想像できない。が、この記述の仕方の問題として、確かに改変を望む人は存在しているのだが、その人たちの感情を煽るようになっていないか?と私は問題視している。

なお、現状のラストも、【ネタバレ防止】の「【ネタバレ防止】エンド」として肯定する人もいるようです。この終わり方だからこそ、その少し前の157話「なんにもない日、すてきな日」の尊さが際立つという意見もありました。 芸能界の「闇」「裏側」を描き続けても、なおもその場所で生きる人びとを描いている作品だからこそ、「どんなに苦しく辛いことがあっても、登場人物たちが芸能界で生きる」という着地は必然と思う人もいるでしょう。

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

ここの記述はもう、他人の意見を使いながら筆者の意見を正当化して押し通そうとしてないか?と思わざるをえない。「現状のラストも(中略)肯定する人もいるようです」という表現から、こういう推測が出来てしまう。このコタツ記事を書いた筆者が一番作品の終わり方に納得できていない。或いは納得できていない人に向けてこの記事を書いている。自らが納得できていないのなら昇華及び世論稼ぎの為にこんな滅茶苦茶な記事を。納得できていない人の心に付け入りPV稼ぎに利用したのではないか、と私個人は捉えてしまう。作品ファンとしてはどちらにせよ不服である。どちらでなくても杜撰な記事を発表した時点で誠に不服である。そもそもちゃんと納得出来ている人が居ると認知しているのならせめて、記事の書き出しに賛否両論と書いてほしかった。

2024年11月14日に完結した人気マンガ『【推しの子】』の最終回には批判、不満の声が続出しました。

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

次の記述に移る。

●原作改変を否定していないからこその期待
『【推しの子】』の劇中では、漫画家の「鮫島アビ子」が、自身の作品の舞台版の脚本について「別に展開を変えるのは良いんです。でもキャラを変えるのは無礼だと思いませんか?うちの子たちはこんな馬鹿じゃないんですけど」などと訴える場面があり、その後も表現が異なる媒体での「原作改変の問題」および「改変がされる正当な理由」をも描いています。  つまり、それは作品内で「原作改変そのものを十把一絡げに否定していない」ということです。

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

開いた口が塞がらない。まず、上記で出て来る漫画家「鮫島アビ子」(※女性)は舞台版の脚本が完成した後に『全部直せ』と主張を始め、脚本家やスタッフに激怒するという展開がある。そうしてストーリーが進んでいき、とある地点で、彼女が何故あそこまで激怒するに至ったのかという脚本を作る構造から生まれた理由、そして彼女個人の持つ感情の出発点が開示される。また、2006年からあらゆる媒体のメディアミックスを楽しんでいる一オタクとしては、この鮫島アビ子の激怒には大変心当たりが有り、彼女に関して作中で描かれた情報と、私の生きる世界での"オタクとメディアミックス"の歴史や事情を知っている身からすれば、とても説得力のある内容になっている。
この状況を知っている読者からすると、意図的に「切り取り」、以下から引用する自らの意見を主張する為に使っていると思わざるを得ない。漫画家、鮫島アビ子が激怒した背景を知っているから身からすると抗議したいと思うのである。

だからこそ、「『【推しの子】』の実写やアニメでは、マンガとは違う最終回を用意することはあり得る」と思えますし、それはメディアミックスの様々な事情を描いてきた『【推しの子】』という作品自体を、メタフィクション的に捉えることにもつながるのかもしれません。

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

その「期待」を煽ってどうするのか。製作に携わらない人が。製作するのはメディアミックスに携わる人々で、最終的に納得できない感情の昂った者から言葉をぶつけられるのは制作陣や原作者である。この記事を書いている者は好きに言えるのである。ライターの一人でしかない。

最後に実写ドラマ版の宣伝でこの記事は終わる。

いずれにせよ、Amazon Prime Videoで11月28日21時より1~6話(12月5日21時より7~8話)が独占配信される実写ドラマ版、12月20日より劇場公開される実写映画『【推しの子】 The Final Act』、放送時期未定ながら制作決定したテレビアニメの3期(それ以降の4期)で、『【推しの子】』の物語がどのように展開するかは見ものです。「原作に忠実」を貫くのか、それともラストも含めて改変をするのか……多くのファンにとって、納得できる内容になることを期待しています。

『推しの子』終盤展開の問題 実写やアニメで「改変」を望む声が出ているのは何故なのか

このコタツ記事、滅茶苦茶である。記事の書き出しでは「批判・不満の声が続出」と書き、作中ではこうだったと都合のいい引用をし、最後は「多くのファンにとって、納得できる内容になることを期待しています。」と〆る。作品ファンとしてはもう言葉も出ない。
一つ言えるのは、多くのファンにとって納得できる内容、というのはこの記事だと原作漫画の結末を否定的に書いているのだが、つまり変えなきゃみんな納得しないよということであろうか?メディアミックスがどうと語った末に、作品に待つ未来のメディアミックスに対して謎の偏見や期待をかけて終わったことになっていないか?
作品を見た私から言えるのは、展開を変えない上で終盤の描写をブラッシュアップすることは可能、である。例えば回想を入れまくるとか。

それにしても、こういう書き方はどうなのかと疑問を持たざるを得ないし、提示したい。私は漫画【推しの子】を愛しているのでこのコタツ記事の問題点が鮮明にわかるが、わからない人にはわからないと思う。
 それはつまり、私自身にも将来類似の記事を読んで誤解が生まれる危険性があるということだ。誰も詳しくない事柄は複数存在して当然である。私は政治や法律、重大事件にかかわる内容は、有名な新聞社やきちんと実名と写真を出しヤフーから身元を証明されたように見える人のものしか読まないようにしているが、それにも限界があるし、私にも誰かへの下心だってあるし、私のように意識をするということを知らない人も居ると考える。

私はこの記事で初めて"コタツ記事"の悪質性と向き合ったように思う。無責任すぎるし、記事として質が悪いと感じた。最近SNSでは、旧来の報道機関……新聞・雑誌・ラジオやテレビを"オールドメディア"と呼んで揶揄する人々を見かけるが、携わる人々は会社の面接を受けて採用され、会社の歴史と法律の知識や先人の経験を活かし仕事をしていると推測できる。あとは攻め時と引き際がわかるとか。コネとか。人によってはセコいと感じるようなことも、行き過ぎた取材も確かにある。しかし、このような低品質で無責任すぎる記事が乱立する事態よりは遥かにマシではないかと私は考える。

そもそもオールドメディアと呼ばれる一定の品質が確保された媒体を否定し、不信感を抱かせることで誰が得するのかというと、オールドメディアに不信感を抱き、さ迷う人々を獲得できるネットで喧伝するのが得意な人々である。彼らがオールドメディアに変わって、情報や自分に都合のいい感情を提供し、"お金を稼ぐ"ことになる。結局現代を生きる私達は、誰かのバイアスがかかった情報しか受け取ることが出来ない運命にある。それはネットで読む文字だったり、耳から聞く言葉であったり。本であったり。人間社会に関することも野生に生きる動物の生態情報も同じ。ただ、どこの誰が発信したかを意識することである程度は得る情報の質を確保することは出来る。逆に言えば、今はもうそれしか出来ない。

一つ言えるのは、ネットに乱立するニュースメディアというのは、プレビュー数を稼ぐ為に何でもするし、質の悪い広告も載せるし、プレビュー数を稼ぎやすくするために記事や広告が偏るようなプログラムを組んでいることが多い。例えば私は20代後半の女性なのだが、広告はそれを意識して女性向けの婚活や美容広告を持ってくる。そのプログラムだって、人の意志によって組み上げられたものなのだ。オールドだろうとニューだろうと、我々は常に誰かの掌の上で生きていることを受け入れ、それでも尚自分が求めるもの……それは正義とか抽象的なものになるが……を求め続けなければならない。この前提なら、私はオールドメディア扱いされている会社となら心中してもいい。

硬い話に逸れたが、作品ファンとしてはこんな簡単なファクトチェックにも引っかかるような無責任で質の悪い記事で作品に偏見を持たされる事態が起こっていることを残念に思う。しかも大手Yahoo!で私はこの記事のタイトルを読んだ。どのようになっているかはわからないが、質の悪いサイトの質の悪い記事を持ってきたのだ。ヤフーニュースはもう、そういうものが入り乱れる場なのだ。誠に残念ながら。

【推しの子】という作品は人によっては一生納得できない作品と、正直認めざるを得ない。私が納得できるからだ。何故なら、『人間』というものの描き方に一定の誠実さを感じたからである。私達はお互いのことを知っているようで全然知らないし。わかりあえない。親子でも姉弟でもそうだ。私は自分が産まれる前の両親のことも、現代社会を懸命に生きる成人した弟のこともよく知らない。こんな私達が時には衝突し、それを基に理解し歩み寄れることもあれば、それで今生の別れになる可能性だってある。
作品、【推しの子】では主人公になる双子が内面の底に抱えている、社会の理不尽より生み出された闇は、作中一情報収集が得意で人を見る目がある聡明な女性だって、見抜くどころか見つけることさえ出来なかったことで、それは証明されている。双子同士でもそうだ。双子の主人公がそれぞれ抱える闇は読者にしか開示されていないし、人物理解を深めるうえで重要なものほど案外さらっと言及されて終わってたりする。それはつまり、『読者には不誠実』と捉える人もいるだろう。人間同士が関わっても、見えるのはほんの一かけらだけ。『人を描くことに誠実になった結果、読者には不誠実に映った』と私は考える。でも私はこう思う。漫画というものは現実と違い、時は止まっている。ならば絵という視覚からの情報や文字の情報からゆっくりと歩み寄ることが出来る。この漫画はよく出来ている。終盤展開だって、ちゃんと読み直して人物理解を深めれば、最終的には良し悪しを決めるのは個人の価値観の問題になるようになっていると私は考える。【推しの子】という作品はそれほど、まるで人間かのように誠実に作られた、1+1=2のような確かな正解が存在しない作品である。見た者が決める作品、それが【推しの子】である。但し、このコタツ記事はそのタイトルのネガティブなイメージと、記事内容で終盤展開だけを普通に流して、そこに至る長い道筋を載せなかった。おまけにファクトチェックに引っかかる情報までつけてあたかも詰めの甘い作品かのように広めた。これはつまり、誰かがこの作品を買うなど、実際に触れる意欲を薄れさせる恐れのある記事だと私は捉える。不服で仕方がない。

現代社会は高速で動き、何かしらの広告がどこを見てもあり、誰かと集まる日を覚えてないといけなくて、私達は日々を生きるので精いっぱいである。誰かのことも、政治も、映画も、家に侵入する害虫と呼ばれる虫たちのことでさえも、私達はよく知らないことが多い。でも知ろうと立ち止まるという選択肢を取ることは出来る……と言えるのが望ましいが、残念ながら締め切りや公共交通機関などの"時間"に追われ、疲れ、立ち止まれる時間は殆どない。そこに蔓延るのがコタツ記事である。忙しい現代社会とそこにしがみつき生きる人々の時間や心の隙間に入り込んで、今日も生産され続けている。私達は全てのコタツ記事を、コタツ記事と見抜くことは出来るのか。何かを糾弾すれば愛好する人から言論統制と叫ばれることもある。お互い分かり合えない世の中で、何を選び取るのかを私達は常に問われていると私は考えている。