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多様性そのものに価値はない(3)

多様性は、多文化共生の文脈では、好ましくない場合もあります。「多様性の時代なんだから、どんな違いも寛容に受け入れるべきだ」なんてボンヤリ考えず、「多様性を尊重する」と言うとき、本当は何を尊重するべきなのかを認識しておく必要があります。


企業のプロジェクト・チームは、多様な視点や考え方、経歴をもつメンバーがいると良い成果につながる可能性が高いといった研究結果があります。けれど―現実味に欠ける例ですが、議論のため―メンバーが言語的に多様で、それぞれ違う言語しか話せず、共通語がなかったら、プロジェクトは成功どころか、遂行さえほぼ不可能です。
 
多様性そのものに価値はない(1)(2)」でも書いていますが、複数の人からなる集団には、何らかの多様性が必ずあります。だから「多様性を実現しよう」とするのは、「何の」多様性なのかにより、おかしな発想です。特定の属性をもつ人の存在だけを「多様性」とみなすなら、それ以外の人たちを同質扱いし、個人レベルの多様性を軽視しています。

「多様性を目指すことが無意味なのはわかる。でも、日本には同調圧力があって、個性や違いをなかなか表に出せない。出しても前向きに評価されにくい。だから、多様性を尊重すること自体は良いんじゃないの?」と考える人がいらっしゃることでしょう。

また、「日本社会では、これまで特定の違いがとくに厳しく否定・排除されてきたので、今、多様性の尊重を声高く訴えてるんです!」と言う人もいらっしゃることでしょう。

つまり、以前―「多様性」という言葉が流行する前―は、「個性を大切にしよう」とか「お互いの違いを認め合おう」と言っていたのと(ほぼ)同じ意味での多様性の尊重です。また、社会で差別されがちな属性をもつ人たち、偏見をもって見られがちな人たちを排除しないという意味での多様性の尊重です。

こういう意見は妥当ですし、賛同できます。ただし、「多様性の尊重」そのものが目標なら、話は別です。
 
多様性の尊重によるジレンマ
 
多様性について日本語で書かれたものを、noteの他の方々の記事も含め、読み続けていますが、「多様性の時代」にどう対応するべきか迷っている人がいらっしゃいます。
 
たとえば、わたしが読んだものからは、次のように感じている人がいらっしゃることがわかりました。
「多様性を尊重しなきゃいけないから、〇〇〇の人を受け入れようとしても、同時に△△△の人もいて、〇〇〇は反対/嫌い/苦手らしい。△△△も多様性を尊重して受け入れるなら、一体どうすればいいの?」
 
言いかえれば、「多様性の尊重」の旗の下に、現実には受容しにくい価値観でも受け入れるべきなのか、押し付けられるままにするべきなのか、さらに、相反する価値観をどう扱うのか、という問題です。

これは、「多様性の尊重」そのものを目標にすることから生じるジレンマです。

「多様性そのものに価値はない(1)」では、「『違い』は何であれすばらしいと信じてあれもこれも歓迎していたら、とんでもない『多様性』に直面することになりかねません」と書きました。また、「日本は、さまざまな意味で多様性への免疫がかなり低い社会だ」とも書きました。
 
日本は文化的に均質性の高い社会です。そのため、現実に何かがどの程度まで多様になりえるか、それが自分たちの日常にどれほど影響を及ぼす可能性があるかを十分に想定しきれていない人が日本には多い気がするのです。
 
「多様性を尊重する」心の広い進歩的でステキな人になった気分で、「ダイバーシティ大賛成!」と言っていたら、そう遠くない将来に「こんなことになるなんて・・・」ということになるかもしれません。「ここまで大規模な地震・津波は想定していなかった!」と震災後に言っても遅いのです。
 
多様性と「多文化共生」
 
日本の地方自治体には、公式ウェブサイトで「多様性を尊重して、多文化共生を推進」しているとうたっているところが多くあります。総務省によると、これは「地域の国際化の推進」の一環であり、具体的には外国人住民の増加への対応です。
 
地域社会に外国人住民が増えると、当然、いろいろなものが多様になります。しかも、日本人同士のあいだでアレコレ違うのとは、多様性の質が異なります。
 
NHKが2020年3月に実施した全国電話世論調査「外国人との共生社会に関する世論調査」(『放送研究と調査』2020年8月号掲載、「外国人増加への期待と不安」岡田真理紗・著)によると、調査に答えた人の38%が「自分の住む地域には外国人が増えてほしくないと思っている」そうです。

また、自分の住む地域に外国人の住民が増えることで期待できることとして、選択肢から一番多く選ばれたのが「新しい考えや文化がもたらされる」(回答者全体の37%)でした。一方、自分の住む地域に外国人の住民が増えることで不安に思うこととして、選択肢から一番多く選ばれたのは、「言葉や文化の違いでトラブルになる」(回答者全体の34%)でした。

後者の回答は、多様性は場合によっては好ましくないと認識している人がある程度はいるということで、遠くから日本を思うわたしとしては少しホッとしました。一方、前者の回答が気にかかります。この37%の人たちは、一体どのような「新しい考えや文化」を思い描いているのでしょうか。「期待できること」なので、好ましいもののはずです。

フランス国立統計経済研究所(INSEE)によると、フランスには2023年時点で約730万人の移民(全人口の10.7%)が住んでいました。(最初に記事をアップロードしてから、数値を更新しています。)移民・外国人の住民がもたらす好ましいものとして、富裕層の投資や、フランス人がもたない特殊な技能をもつ人たちによる社会への貢献がまず思い浮かびます。

それ以外で、移民・外国人の住民がもたらし、フランスの地域社会に住む現地人に恩恵をもたらすものは極めて限られています。世界各地のいわゆるエスニック料理(レストランやテイクアウト店、外国人との交流を通して)くらいです。音楽や手工芸品も考えられますが、現代の情報化社会では、魅力的で現地人に需要がありそうなものは、移民を介さずとも何らかのルートで入ってきます。

地域社会に他の文化がもたらす多様性で好ましいものは、上記のように、おもに料理とか品物といった人工物です。これは「新しい考えや文化」が具現化したもので、「新しい考えや文化」そのもの、モノより上位にある思想、考え方、価値観ではありません。

わたしの住む村は人口が2千人以下ですが、本人が他国からフランスに移住してきた移民一世が全体の1%くらいいます(出身国は複数)。小さい村なので、その半分くらいを私は個人的に知っています。この人たちが、それぞれの出身国独特の価値観を村にもたらしているか?と言えば、答えは「否、いいえ、Non」です。
(*追記 その後、最新データを確認したら、村の人口は2100人を少し超えていました。この約半分が15~64歳の就労年齢層です。)

この人たちの存在が村の地域社会にとって好ましいものであることは断言できますが、それは外国人として「新しい考えや文化」をもたらしたからというよりは、現地社会の習慣やルール、価値観を尊重し、地域に溶け込んで、善き住民として和やかに暮らしているからです。わたし自身も、移民としてそのように生活しています。(この話はまたいつか・・・)

一方、フランスで、またヨーロッパ各地で「好ましくない多様性」をもたらす移民が問題を起こしていることは、わたしがわざわざ書くまでもないでしょう。「ヨーロッパの多文化主義の失敗に学べ」と、すでに警鐘を鳴らしている人が大勢います。

わたしはnoteでは「一夫多妻制はなぜダメなのか」というタイトルでも記事を3本書いています。きっかけは、「少子化対策として一夫多妻制はどうか?」と考えている日本人がいると知ったからです。また、これに「多様性の時代なんだから、一夫多妻制も検討しよう」と賛同している人もいると知りました。

これは、多様性を重視することから生まれる間違った考え方です。多様性そのものには価値はないのです。多様性のために何かを良しとする前に、それに絶対的な価値があるかを、一貫して適用できるブレない基準にもとづいて判断するべきです。
 
そのような判断基準として、日本は法治国家なので、第一に日本の法律、地域の条例、規定があります。(「でも、現行の法律に問題がある」と考えるなら、民主的な方法で法律改正のための運動を始めればいいのです。)
 
また、日本に住む人が一般的に共有する道徳観や、人の生命、人間としての尊厳、基本的人権の保障、それと関連して、年齢、性別、人種、国籍、障害の有無など不変の特性を理由とする差別の禁止も、社会の大半が合意できる(はずの)価値観であり、判断基準になりえます。(何を「不変の特性」とするかなどの明確な定義が必要ですが。)
 
日本で多文化共生を推進し、成功させたいのであれば、「多様性の尊重」そのものを最優先するべきではありません。たとえば、地方自治体が緊急時情報を多言語で提供するなら、それは多様性を尊重するためではなく、全住民の安全のため、生命を守るためであるべきです。多様性より高位の価値のためです。
 
法の支配や、その他の多様性より高位の絶対的な価値を目標にすれば、新たに「多様性」なんて言葉を多用する必要も、「多様性のための対策」を講じる必要もないはずです。

多様性の尊重によるジレンマも、ほとんどが解消するのではないでしょうか。
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