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多様性そのものに価値はない(1)

インターネットで「多様性」「ダイバーシティ」という日本語を見かけるようになって、すでに十数年経ちます。わたしは日本に住んでいないので、一般的な日本人の日常生活に、どれくらいこの言葉が定着しているのかはわかりません。仕事を通じてはある程度、日本とのつながりがあるので、いくつかの日本の企業や大学や自治体が「多様性」を好ましいものとして、あるいは尊重するべきものとして、目標のひとつとして掲げていることは知っています。

日本での「多様性」の推進は、多様な人の採用、受け入れ、活躍を目指す、ということであったり、外国籍の人も含めさまざまな背景をもつ人たちが同じ地域に住むようになったので、違いを考慮して誰もが住みやすい場所を実現しよう、ということであったりします。

ではそのために、日本では具体的に何が行われているのか、もっと知りたいと思いました。わたしが知る限り、日本は、さまざまな意味で多様性への免疫がかなり低い社会だからです。まず、わかりやすい領域として、企業における多様性を見ました。日本の経済産業省も、「ダイバーシティ経営」を奨励しています。日本企業のウェブサイトをいくつかのぞいてみると・・・

食品会社Aは、「従業員それぞれの多様な考えや経験を活かすこと」を目指して、女性の活躍を促進しています。また、同性間・異性間を問わず、事実婚関係にある従業員も、法律婚をしている従業員と基本的に同じ福利厚生等の恩恵を受けられるようにしています。

エネルギー資源会社Bでは、「組織・人員の多様性を確保」するため、多様な考えを受け入れあい、具体的には女性の活躍や外国籍者、障害者の採用を推進しています。この企業も上記の企業と同じく、同性間の事実婚をしている社員を法律婚をしている社員と人事制度上同様に扱うようです。(異性間の事実婚は?)

また、運輸サービス会社Cは、年齢、性別、国籍、障害、キャリア、性的指向など、背景の異なる社員がそれぞれの力を発揮し、組織として最大の価値を創出することを目指すとうたっています。(えっ?つまり、性的指向によって、仕事における力の発揮の仕方が違うとでも?)

他にも数社見ましたが、「多様性」「ダイバーシティ」だけでなく、もう一つ別のカタカナ語、「インクルージョン」と組み合わせて経営方針として推進していくことを公表している企業もかなりあります。また、この方針をSDG達成やESGの目標に連結させているケースも。おおまかにまとめると、多様な人材のもつ能力や経験の活用や、人の外的属性における多様性の尊重を目標とする場合もあれば、多様性そのものが目標になっている場合もあります。

でも、「多様性」って、そんなに良いものですか?

多様性そのものには絶対的な、一義的な価値はありません。

経済産業省も、「『ダイバーシティ経営』は、社員の多様性を高めること自体が目的ではありません」と述べています。おそらく、経済産業省としては、多様性を高めることばかりに躍起にならず、それにより競争力、利益を上げることの方に尽力してほしい、というのが本音でしょう。企業は最終的にはお金儲けが目的ですから、この点は明確なはずです。

けれど、わたしが多様性自体には価値がない、と考えるのは、政府機関がこう言ってるからではありません。

多様性の価値は二義的なものです。
 
たとえば、ある日本企業があって、その正社員はほとんどが日本で一流とされる4年制大学の新卒採用、日本国籍で五体満足な男性だとします。そんな「昭和な」企業が、「ダイバーシティ路線」に切り替えます。その結果、転職者、外国の大学出身者、非大卒者、障害者、女性、外国籍の正社員が増えました。何が起こったのでしょうか?
 
何が起こったかの説明として、2つのシナリオが考えられます。

シナリオ(1)これまで実践してきたマイノリティーを排除しがちな、差別的ともいえる採用基準をすてて、合理的な、能力や適性などを重視するフェアな採用をした。

シナリオ(2)「ダイバーシティ」を重視する(あるいは、そういう企業であるとアピールする)方針にそって、女性、障害者、外国人などの採用枠をもうけ、条件に合う応募者を採用して、数をそろえた。

シナリオ(1)と(2)の組み合わせも可能です。
 
理想の世界では、どちらのシナリオでも、採用された多様な人材は仕事でそれぞれの能力をフルに発揮し、多様性のおかげで社内の雰囲気が生き生きとして、企業の業績も収益性も上がり、めでたしめでたし・・・といったところでしょう。
 
では、現実の世界では、どうなるでしょうか?シナリオ(1)では、採用基準も審査もフェアにしても、合格点に達する応募者に理想通りの多様性が見られるとは限りません。結局、同じような属性の人ばかり採用することになるかもしれません。

シナリオ(2)では、多様性そのものが目標です。上記のようにマイノリティーを一定数採用するために、基準に満たない応募者でも雇用者側が妥協して採用することになり、理想通りの効果は生まれないかもしれません。
 
多様性そのものを目指すべきではないのです。多様性を優先すると、もっと本質的で重要な何かが弱まる、あるいはすっかり損なわれるリスクがあります。多様性そのものには絶対的な、一義的な価値はないのです。
 
多様性は、多様性よりも高位の何らかの価値が実現した結果、生じるものであるべきです。また、高位の価値が実現しても、多様性につながらない場合もありえます。多様性のための多様性は無意味です。
 
「高位の価値」とは、人権の尊重、機会の平等、偏見のない選択など、そのこと自体が絶対的な価値であるか、その実現が合理的、論理的に必然であることです。理想の世界においては、シナリオ(1)で、不当な差別的取り扱いの解消、平等な機会提供、フェアな採用プロセスが保証され、その結果、多様性が実現します。多様性のために実現される多様性ではありません。
 
ここまでは、日本の企業が「多様性」と言うときに想定している多様性、つまり人の性別や国籍、障害の有無など、マイノリティー差別の要因となりがちな外的な属性や特徴における多様性を「多様性」として書いてきました。けれど、多様性について考えるなら、何の多様性なのか、という問いかけが必要です。
 
個性の多様性はどうでしょうか?
 
人は一人ひとり違います。人が20人集まれば、すでに20通りの個性があるはずです。生まれ育った環境が似ている同国人でも、それぞれ異なる個性をもっています。同じ親のもとに生まれ、同じ家庭で育ったきょうだいでも、それぞれ違った個性があります。確かに、日本人の場合、100人、1,000人くらいの規模の集団内における人種、国籍、出生地、言語といった属性のばらつきは、たとえばアメリカ人と比べると小さめでしょう。けれど、個性のばらつきが小さいと証明した信頼できる研究結果を、わたしは寡聞にして知りません。

複数の人が集まれば、ある意味、それで多様性は実現していると言えませんか?
 
ある集団における多様性と言えば、性別や性自認、年齢や国籍、性的指向、人種・民族的背景など、いわゆるマイノリティーを特徴づける属性をもつ人のことを指す傾向があります。けれど多様性には、他の種類の多様性もあるのです。
 
わたしの居住国フランスでは、「多様性」といえば、まず人種的多様性のことです。メディアや、ときには一般人も使う「多様性に由来する(issu de la diversité)」という表現があるのですが、これは「非白人」を指す歪曲表現です。障害者や性的マイノリティーも含むと言う人もいますが、多くの場合、非白人のことです。この表現を使われる側の非白人の多くが、これを嫌っています。
 
ここ数年間で、ヨーロッパのクラシック音楽のオーケストラやプロのバレエ団に「多様性」が欠けるという発言がよくされるようになりました。「団員が白人ばかりだ」という意味です。さらには、プログラムを構成する作品が白人男性によるものが大半であるという批判もあります。
 
クラシック音楽もバレエも西洋に生まれた芸術であり、19世紀までは西洋人(つまり白人)がもっぱら実施、興行してきました。広く知られた古典的作品の大半が白人男性によるものであることは変えられません。(「日本の歌舞伎には日本人男性しか登場しない。問題だ」なんて批判は、まだ聞いたことがありません。)また、20世紀からは非白人でも才能ある芸術家は認められ、世界的に活躍しています。
 
このような歴史的事実を無視した、「多様性」「ダイバーシティー」を求める声が大きくなれば、メンバーの能力よりも人種的な多様性(ばかり)を考慮した、非ヨーロッパ人による(あまり知られていない)現代作品しか公演しないオーケストラやバレエ団ばかりになる日がそのうち訪れる、と危惧している人たちがヨーロッパにはいます。
 
クラシック音楽やバレエは、ある意味、まだいいんです。生きていく上でどうしても必要なものではありませんから。でも、この傾向が強まり、生命にかかわる領域においても、本質的なことより人種的多様性が重視されるようになった状況を想像できますか?たとえば、世界でトップレベルの科学者を集めて難病の治療法を開発するはずのチームが、人種的多様性に欠けるという理由で研究資金を得られないとか、チームを解散させられるとか。
 
多様性は、そのものを目標にするべきものではありません。好ましい多様性は、それより高位の価値が実現した結果、おまけの現象のように生じるものです。

現実の社会における さまざまな種類の多様性(「多様性」の多様性!)を知らないうちに、「ダイバーシティ」なんてカタカナ語や楽しげなコピーに踊らされて、「違い」は何であれすばらしいと信じてあれもこれも歓迎していたら、とんでもない「多様性」に直面することになりかねません。(この話はいずれまた・・・)

多様性を、多様性のためだけに追求しないでください。

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