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仙臺の棚機(七夕)まつり


終戦後の名懸丁入口の七夕祭りの風景
【仙臺・一枚の写真】仙台七夕まつり 終戦後、占領下の仙台。 終戦後、仙台の七夕まつりは復活しました。この写真は現在のアエルとパルコの所から名掛丁を望んだ写真。【名掛丁繁栄会】の横断幕の上は織姫と彦星は駐留軍の影響が色濃く繁栄されている様だが、質素ではあるが、現在につながる仙台七夕まつりに対する仙台商人の意気込みが見える飾り付けである。米軍は昭和32年まで仙台に居た。日本人の歩く姿や洋服を見ると、終戦から時を経た、七夕祭りが復活して5年程経った昭和27〜28年頃だろうか。歩く米兵と黒い大型車のリアが映り込んでいるがこの車は【クライスラー ウィンザー】クライスラーの戦後型は1946年に登場!左にはえびす屋の看板が見え、右側にはClook中川の文字。奥に見えるのは松屋と言う和菓子屋か、ここは「ゆべし」や戦前戦後の仙台の銘菓「政岡豆」を受け継いだ店だったか。石畳には市電のレールだろうか。勿論、アスファルト舗装など、電車通りも名掛丁もされていず、雨が降ればどろんこである。交通整理をする姿は米兵のMPか。

二世十返舎一九が書いた『奥州仙臺年中行事大意』(1847)
【七月七日の記述】
棚機祭六日夜より
「七月七日棚機祭、六日夜より篠竹(しのだけ)に、色紙(しきし)短冊(たんざく)、草々(くさぐさ)の形を切って歌をかき 又は堤灯をともし 七日の朝評定川または支倉川、澱川(よどみがわ)へながす」

二世十返舎一九が書いた『奥州仙臺年中行事大意』(1847)【七月七日の記述】棚機祭六日夜より「七月七日棚機祭、六日夜より篠竹(しのだけ)に、色紙(しきし)短冊(たんざく)、草々(くさぐさ)の形を切って歌をかき 又は堤灯をともし 七日の朝評定川または支倉川、澱川(よどみがわ)へながす」

仙台領の江戸時代の七夕祭りの最古の記録
享和元(一八〇一)年生まれ で、国分町で紙や小間物を扱う菅野屋喜兵衛 の店に奉公する手代の佐吉。佐吉の名が残ったのは彼が立身出世を遂 げたからではなく、佐吉が残した文政三(一八二二)年ころの記録が、彼の名を今に伝えることになったのです。
七夕の記録。
佐吉は主人の妻等十数人と、七月七日の早朝に城下の評定橋まで行き、前の晩に飾った七夕飾りの笹竹を広瀬川に流した様子を絵入りで書きとどめています。全国的に有名になった仙台七夕の、そのルーツの証言者として、佐吉の名は仙台の歴史の中に残ったのです。

仙台領の江戸時代の七夕祭りの最古の記録
七月七日の早朝に城下の評定橋まで行き、前の晩に飾った七夕飾りの笹竹を広瀬川に流した様子


五月の節句の仙䑓城下の様子 棚機まつり同様に軒先高く幟を飾った様子

江戸時代の江戸の七夕祭り=仙台領の七夕祭り同様に、天高く笹竹に短冊を飾り、翌日には川へ流す風習は、現在でも全国的に多く残っている。
仙台の七夕祭りは、昔は陰暦七月六日の宵(よい)に行われましたが、明治になって陽暦八月六日の宵にと変わり、近年は八月六日から八日までの三日間行われるようになりました。二代目十辺舎一九(じっぺんしゃいっく)の「仙台年中行事」には次のように書かれています。
六日の宵に竹を立てて飾ることは、従来から全国で一般的だったようです。仙台で一番古い門前町であり商店や町屋が並ぶ御宮町の七夕まつりも同様に六日に軒先に飾られた短冊と笹竹は翌朝の七日の朝に評定河原に流しに行ったと思われます。

江戸時代の江戸の七夕祭り

このように、仙台七夕祭りは、武家屋敷、商人町を問わず、町のすべてをあげて軒並みに七夕飾りを立てていたようです。しかし、明治維新の改革後、七夕祭りは衰退し、大正時代から昭和にかけての不況は、さらに衰退に拍車をかけていきました。

 復活したのは、昭和三年に開催された東北産業博覧会がきっかけでした。

常盤町遊郭や虎屋横丁や稲荷小路の七夕まつりの様相は活況を呈しており、商店街の七夕祭りの見本として常盤町遊郭での七夕まつりの手法や飾り付けなどを取り込み、商店街で七夕まつりを開催する構想が商店主より持ち上がりました。

仙台商工会議所と七夕祭協賛会が市内の町内会に呼びかけて、博覧会終了後に七夕祭りを実施、初めて飾り付けのコンクールが行われました。仕掛物も披露され、大盛況のうちに三日間の祭りは幕を閉じました。こうして仙台の七夕祭りは少しずつ豪華となり、今では日本一と呼ばれるようになったのです。

七夕祭りは一時期中断があったものの戦後の昭和21年、まだ世の中が混乱の状態にあったにもかかわらず、その傷跡がそちこちに残る街中に復興したのでした。翌昭和22年8月5日には、天皇陛下が東北地方ご視察の時に、仙台を訪れました。一日繰りあげての七夕祭りの、五彩の笹飾りがゆれる中をお召自動車は通られ、陛下も「実にきれいであった」と大変お喜ばれたそうです。
かつては、七夕の前日、町なかには近郷近在(きんごうきんざい)からやってきた竹売りの姿が見られました。笹竹は唐竹(からたけ)と孟宗竹(もうそうだけ)の両方が用いられましたが、最近は、若竹の葉が細かく枝が張っている孟宗竹が多く使われています。

 仙台七夕祭りの特徴である七つの飾りの一つ一つには、作った人の願いや祈りがこめられています。そして、仙台七夕飾りには、七つ飾りを下げるよう、仙台七夕まつり協賛会や商店街では申し合わせているのです。

このように、現在の仙台東照宮の門前町 御宮町の七夕まつりは、江戸時代を通じて行われてきましたが、さまざまな変遷により、現在の七夕まつりに受け継がれています。

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