江戸時代の仙台領の端午の節句の幟(のぼり)
令和6年端午の節句
【5月5日】の幟(のぼり)・武者絵幟(むしゃえのぼり)】
武者絵幟の起源は江戸時代初期と言われており、合戦場で掲げた幟旗は時代を経て「旗指物」という家紋だけが描かれた「のぼり旗」が流行り、時代を経て江戸時代末期の嘉永頃になると男の子の幸せを願って、金太郎、武者絵などが描かれた「武者幟」を立てるようになったといわれています。
写真は①と動画②は仙台市青葉区福沢市民センターに掲げられた武者絵幟【令和6年5月3日撮影】
江戸時代末期に二代目十返舎一九が書いた『奥州仙臺年中行事大意』(1847)の仙臺領の特に仙臺輪中※1(府中)の行事についての記述がありそれらを元に繪巻が描かれました。その絵巻の下絵と見られる図版を昭和15年に仙臺年中行事繪巻として常盤雄五郎が出版、三原良吉が解説を書いています。その絵巻の繪巻之六に幟見付・・・之圖の一部に端午の節句の仙台の様子が描かれ、解説があります。以下解説
端午節供 繪卷之六 幟見附天神講之圖【天神講省く】
〜嘉永3年頃の仙台の行事と推定〜
五月四日の夕、家々喜赤に差を添へて軒端々々に葺き、五日の節供を迎ふ。この月の朔日又はそれより早く四月二十八日より五日まで、士凡工商の家々に犬なる幟を立つ。この様の大いさ概ね幅二尺五寸より三尺、長さ二丈四尺より三丈に至る。家紋あるひは鍾馗、武者等を染め抜き、竿の上端に小さなる同じ形の幟を、吹流し様に附し、その他鯉の形、吹流し等の類、思ひ思ひに立て連ね、市中は店頭に立て列べたれば、其の様真に勇しかりき。幟見 は市中を巡りて見るもあれど、多くは向山に登りて眼下に取るに、旗幟は町並に列を爲すが爲め一入の眺めなりし。この歳、男子出生して五歳の春を迎ふる時に調ふる習はしなりしが、家々幟の古きを以て矜りとせり。その由來 定かならざれど、戰爭の時、敵に封する悩装の爲め藩にて城下家々に作らしめたるが起原なりと云ひ傳ふ。
と仙台の当時の様子を事細かく解説してあります。まだこの頃、幟の先に二つ三つの鯉のぼりが見受けられますが、武家も凡下商家も町人も上りを立てていた様子が見て取れます。
※1:仙台輪中とは仙台城下の範囲内の地をいいます。城下と在郷との境界は、特に行政・司法の 上からも厳密に確定して置く必要があり、城下絵図にもその境界線を点線ま たは朱線で明示してありました。この境界に引かれた囲線を「輪」といい、その輪の中を「輪中」〔わちゅう〕と称したのです。城下絵図を見れば一目瞭然ですが、仙台輪中について次のような 資料があります。
「御城下御境丁場御定」(原貞氏耳袋8〕 (東北大学図書館所蔵。仙台市史資料415) 「仙台輪之内、南八船町御材・・・云々