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河北新報 夕刊 [あの時]を訪ねる 昭和の仙台・宮城 令和6年3月7日(木)

【「あの時」を訪ねる】 第26回/「駅裏」時代の仙 台駅東口

仙台空襲の戦火を逃れた 現在の仙台駅東口エリアは、 古い木造家屋、商店街が昭 和60年代まで残され「駅 裏」と呼ばれていた。196 4(昭和39)年の新聞には 「争って改装をしている商 店街と比べて万事地味。そ れだけに戦前の良さを多分 に残す」と二十人町を紹介 している。 昭和40年代から少年期をこのエリアで過ごした千葉富次男さん(61)=青葉 区=は「職人が営む老舗な ど商店が多くあり、日常生 活を賄うには十分だった。 お年玉をもらうとこま屋さ んに行ってオーダーメイド でこまを作ってもらった。 西口や一番町に行くときに はおめかしをする。仙台駅 を挟んで別世界が存在して いた」と話してくれた。戦後、現在の榴ヶ岡公園 に米軍キャンプが置かれた ため、飲食店、飲み屋、ダン スホールなど、軍人相手の 商売が盛んな時期も長かっ た。「夕方以降はX橋(現宮 城野橋)あたりに行かない ように言われた。子どもに も独特の空気が感じられた」 と千葉さんは振り返る。

名掛丁(宮城野区)で酒屋を営む梅津恵一さん(71) =宮城野区=は、「住民は多様だったが、穏やかに暮 らしていた」と語る。「商売 の傍ら町内会長をしていた 父の誘いで集まりに参加し、 地元への愛着が深まった」。 自らも青年部長を引き受け、 仲間と活動した。青年部により編集された「名掛丁東名会町内史」(1 991年)には、住民の思い が綴られている。「にぎやか な町」「地下道を定期的に 清掃」「決して環境の良い町 ではなく批判もあったが、 人情の町として誇りを持っ ていた」。「都市計画でこの 地を離れることになると思 うと心苦しい」という言葉も見られる。

町内史よると、名掛丁商 店街がピークだったのは昭 和30年、45業種66店、 「食品関連が多い。大家族 化などで繁盛した」とある。 平成に入ると「業種、商店 数ともに半減、商店街の地 盤沈下が目立つ」「都市化の 影響で住民が郊外へ流出」 とあり、変わりゆく街の様子が伝わる。

「区画整理事業が始まることを考えると、町内史を まとめる必要があると思っ た」。89(平成元)年12月 の夕刊記事には「住民全員 が思い出話」の見出し、写 真には机を囲む青年部メン バーが写る。「転居しても町 外会員として残ってくれた 仲間もあり、名掛丁はそれ が大きな力となって町名、神社などを残せた」と梅津 さん。「まちづくりと言うけ ど、まちが人をつくるのだ と思う」。平成に入っても 「戦後復興」が続いた「駅裏」。 大きく都会化し「東口」と呼 ばれるようになっても人情 は息づいている。

写真:昭和 の 名 掛 丁 の 風 景 。
現 在 は こ の 場 所 に ビ ル や マ ン シ ョ ン が 立 ち 並 ぶ
= 1977 年 昭和52年
( 「 名 掛 丁 東 名 会 史 Ⅱ 」 よ り 。 庄 司 喜 隆 氏 撮 影 )
写真①:仙 台 を 代 表 す る 商 店 街 だ っ た 二 十 人 町 。
現 在 は 幅 40 メ ー ト ル の 幹 線 道 路 と な っ て い る
= 1964 年 3 月
( 河 北 出 版 セ ン タ ー 「 せ ん だ い 百 景 い ま 昔 」 より

※誌面上の写真のキャプションは⇆!

夕刊の記事

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