35年前の今日と、映画とともに
仙台にあった映画館について。
昭和64年は昭和天皇の崩御により1月7日までの7日間で、1989年は正月8日から平成元年となった年の今頃、確か平成元年11月5日日曜日に、高倉健さんと松田優作さんの出演した『ブラック・レイン』を仙台東宝劇場で堪能したのでした。
もちろん高倉健さんは素晴らしかったが、誰よりも他の名だたる大看板の役者を食ってしまっていた松田優作さんに衝撃を得たのを記憶している。
映画を観た後は松田優作さんがいかに凄い演技をしたかと、ひとしきり語り合った事も記憶に新しい。
しかし、しかしである。その翌日 11月6日月曜日の夕方から夜に掛けて衝撃的なニュースが流れたのを今でも強烈に思い出す。
昨日見た映画の中心にあって、その存在感が映画の大部分に感じていた、松田優作さんが癌で急逝したとの報に絶句したのだった。
あの衝撃のニュースから、今日で35年だと言う。
仙台東宝劇場は、かつて宮城県仙台市青葉区中央2丁目に所在していた東宝系の映画館で、神奈川県横浜市で「横浜東宝会館」などの映画館を経営していた「東宝関東興行株式会社」が運営・経営していたが、後年は近隣の「日乃出劇場」などや東京都新宿区で「新宿スカラ」などの映画館を経営していた会社「三和興行株式会社」に移管された劇場でした。
設備としては最新のドルビーデジタルシステムを有し、DTS、70mm映写機(東宝1)を有して、定員は588席があり、常に洋画の大作・話題作と、ヒット予想の高い邦画を上映していた東北地区における東宝系のチェーンマスター的存在として親しまれた大きな劇場という印象でした。確か系列として仙台東宝2と言う小劇場も上階にあった。
旧東宝仙台ビルは地上8階・地下1階建てで、地下1階に株式会社一の坊運営の「珈琲院『詩仙』」、1階には高山書店(2002年経営修了)、4階には野村證券仙台支店があり、東宝2のあった8階には竹中工務店の事務所がテナントとして隣接していた記憶がある。
内緒だが、階段を上がると誰も来ない広い踊り場の空間があり、良い◯◯◯スポットとして利用したものだ。珈琲院『詩仙』や詩季さんはよく通ったものでした。
当時、地元紙夕刊に仙台市映画協会の「映画ガイド」があり、作品や上映時間が載っていて、東宝のはす向かいの日乃出プラザは何と『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』『スター・トレックV』の2本立て。一番町の松竹は三国連太郎さん主演の『利休』、東映パラスは宮崎駿監督『魔女の宅急便』の豪華ラインアップだった事も記憶の奥底にある。
学生時代から社会人になっても、私たちの様に高倉健さんフリークとしてはまだまだ映画は娯楽の上位だった訳で、年末になれば各館の正月映画の1ページ広告が地元新聞の夕刊に掲載されていて、邦画は『男はつらいよ』(松竹)『ゴジラVSビオランテ』(日乃出)。洋画は『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』(東宝)『ゴースト・バスターズ2』(ピカデリー)など、今にして思えば凄い作品ばかりだったなぁ。
新聞の映画ガイドには「毎週土曜オールナイト!」という情報も掲載されていて、よく◯◯◯で活用して◯◯◯◯◯◯したり、東映パラスで高倉健さんの作品の上映会を主催する友人「大宮飲食グループの日下さん兄弟」の影響で高倉健さんの映画をよく観たし『犬神家の一族』『人間の証明』など5本立ての角川映画特別オールナイトを見たりして夜更かししたっけなぁ。
いまはもうない仙台の映画館は懐かしさと淡い想い出と苦く胸がキュンとする想いがある。
松田優作さんの生前には、出自など気にする対象では無かったのでしたが、私の遊郭の歴史を研究する上では避けては通れない人物だったのが松田優作さんだったのでした。
多分に諸説ある一つなのだが、と言い訳の前置きをして綴ります。
後に松田優作さんのお母さんになる方のご両親は半島出身者で、日本に渡航後、その二人の間に生を受けたのが後の松田優作さんの母親とな女性でした。
その女性を、遊郭が立ち並ぶ地域で半島出身のご両親は真っ当な生業をして女の子を育てました。
成人した女性は日本人の旦那さんとの間に二人の兄弟を儲けたごく普通の家庭生活を営みましたが、後に旦那さんが居なくなって仕舞うという事態となって仕舞い、その後、二人の兄弟を必死に育て、活計(たつき)を一人で支えました。
女性は、終戦後の昭和20年代はじめ遊郭が立ち並ぶ一角に質屋兼小料理屋風の2階に貸し座敷を有する商売を始めました。
終戦後に女手一つで3人の兄弟を育てるのは並大抵の労苦で無かった事は容易に想像できます。
遊郭が立ち並ぶところにある貸座敷と質屋、その上で、その女性もまた自由恋愛をして糊口を凌ぐ生活ぶりだったと言います。
しかし、長崎から流れてきた篤志家で保護司というお触れの紳士と入魂になり、慎ましくも平和な生活を送っていましたが、仲睦まじい日々は長くは続かず、程なくしてその女性が身籠ると、篤志家で保護司を名乗る男性は故郷に逃げる様に帰っていったと言います。
あくまでもそんな説もあるという定かでは無いと言うのが話の実態です。
その身籠った子が後の優作でした。
その後の松田優作さんの立身ぶりは皆様ご存知の通りで、日本に帰化したのもあの「◯◯に吼えろ」なテレビシリーズ出演後に有名になってからの様でした。
アメリカの大統領選挙も佳境を迎え、つい先ほど勝利宣言を発した「花札」ではなく、トランプさんはどんな夢を見させてくれるのだろうか。しかして、暗澹たる世界を呈するのだろうかと、松田優作さんのご逝去から35年の月日を実感する令和6年(2024)11月6日の夜なのでした。
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