Career Opportunities (are the ones that never knock.)
今まで感じてきた「生きづらさ」は、自分の努力不足だと思って生きてきた。
もっと頑張っていれば。もっと我慢していれば。もっと積極的になっていれば。
仕事が長続きしないのも、周りの人たちとうまくやっていけないのも、自分の努力が足りないからなのだと。
おまけに言えば、運動音痴なのも、他人の話しが覚えていられないのも、ネガティブな思考も、片付けが苦手なのも、お金にだらしないのも、彼女と上手くやっていけなかったことも、結婚できないことも、全部がぜーんぶ自分の気持ちが足りないからだと。
でも、これらが全て脳の発達が、他の人に比べて困難な状態であったがための特性だったのだと分かった時から、「そうだったのか」と納得する部分と、ぼくは『通常発達』ではないのだという劣等感と、「だとしたら、これからどうすればいいのか?」という不安と、「自分の努力不足だと考えて、生きづらさを感じて生きてきた時間はなんだったのか?」という人生の2/3を無駄に過ごしてしまったという絶望感に苛まれ続けている。
大人の発達障害は、社会に出て初めて気づくことがほとんどなのだそうだ。学校生活では、その特性が歴然とした違和感として表出することがなく、学校という守られた場所から一歩外の世界に出ることで、弱肉強食の社会での弱者という立場を思い知らされることで、発達障害に気づく。
早い段階で気づけた人は、まだ服やリュックサックを爪で引っ掻かれただけで済んだが、50歳になって気づいた時には、もうすでに下半身は食いちぎられ、内臓を引き摺り出され、意識が薄れつつある状態なのかもしれない。
この状態で、この先どう生きていけばいいのか?
支援センターもサポートはするが、働き口は自分で探してこなくてはならない。探してくれば、面接のサポートもする。運よく就職できれば、定着できるよう支援もしてくれる。だが、一般企業での採用はほぼない。障害者雇用枠もほとんどが身体障害者の採用を前提としている。メンタルが不安定な障害者は必要とされていない。
就職の機会なんてやっては来ない。