りふれっくす
ぼくが、このnoteを始めて1ヶ月ほど経った頃に、「回避性パーソナリティ障害とライブハウス」という文章を書きました。 このタイトルが良かったからなのか、興味を持ってくださる方が多くいらっしゃり、今のところぼくのnoteの記事の中では一番読まれている記事になっています。 ぼくは、回避性パーソナリティ障害だと主治医から診断を受けたわけではありません。障害者手帳や障害年金などの申請に必要な診断書には、「うつ病」「アスペルガー症候群」の2つが記載されているだけです。 発達障害に
今日も、特に何をするわけでもないのですが、部屋の真ん中に置いたローテーブルの前に正座し、ローテーブルの上で眠っているMacBook Airを人差し指で起こします。 朝起きたら、とりあえずほんのりと甘いアイスカフェオレを淹れて時間を過ごします。 新着のメールもない。来てたとしても、製品登録したメーカーのDMか、メルカリで売っているレコードが売れた時の発送依頼通知くらいのもので、個人的なメールなど、ここ数ヶ月に一通も届いてはいません。 西向きに座っているので、左後ろの方から
「ぼくって一体何なんだろう?」 「何で生きているのかな?」 「何でこの世に出てきてしまったのかな?」 様々な疑問が頭の中を駆け巡る。 「50数年間生きてきて、この間、一体何をしてきたのだろう?」 「この50数年間、本当にぼくは存在していたのだろうか?」 だんだんと、自分の存在が頭の中であやふやになっていく。 「誰かの記憶の中に、誰かの思い出の中に、ぼくは存在しているのだろうか?」 そんなことを誰かに尋ねてみたいけれど、誰に尋ねればいいのかが分からない。 尋ねよ
今年の5月?6月?頃より、痒いわけでもないのに、右手の薬指で頭をコリコリとするようになっていました。 なぜかは、まったく分からないのですが、クセのように頭をコリコリとしていることに気づいたのです。 かさぶたができているわけでもなかったのですが、コリコリやっているうちに、当然、頭皮が傷つきかさぶたができ、それをまたコリコリしている。 最初は、無意識にやっていたのに、コリコリやっているのに気づいてからは、もうそれが当たり前のようになってしまって、頭皮が気になって、何かをして
「罪悪感に押しつぶされる…」という記事を今月の初めに投稿したところ、どこをどのように伝わって行ったのかわかりませんが、160名以上の方が読んでくださり、35個もの「スキ」をいただいています。 フォローしてくださっている方も少ないですし、膨大な数の記事が掲載されている「note」の底辺に埋もれているような記事に、どのようにして辿り着いてくださったのかの見当もつきませんが、私の記事ではなかなかこれほどまでの反響をいただくことなど、ほとんどなかったので驚いております。 そして、あ
誰かに物事を頼んだり、頼ったりすることができません。 どこまでなら、頼んだり、頼ったりしてもいいかの線引きがわからないからです。 もし、何かをしてもらうよう、人に頼んだとして、「そのくらい自分でやれよ」 と、思われるのではないかとの気持ちが強く、後から「言ってくれれば、そのくらい手伝ったのに」と言われることもしばしば。 そのため、やらなくてはならない業務を抱えすぎてしまっていたこともありました。 ごく小規模の施設で長をさせていただいていた時にも、職員のリーダーに、よく「も
昨日書きました、「罪悪感に押しつぶされる…」というタイトルの文章が、思いに反し、多くの方が読んでくださり、「スキ」がついた時の通知が、何通も届くという事態に驚いています。 スマホに通知が来るたびに、目に涙が浮かんできて、「しあわせ」を感じています(盛っているわけではなく、本当に涙が込み上げてくるのです)。 「スキ」を付けてくださった方々の、ページへ飛んでみて、プロフィールを拝見すると、しっかりと自分自身を理解し、その得意分野で活躍されていらっしゃる方が多いように見受けられ
2021(令和3)年4月いっぱいで、仕事を辞めました。 世の中は、新型コロナウイルスが猛威をふるい、コロナワクチンの接種がようやく始まるくらいの時期だったかと記憶しています。 メンタルクリニックに通い出してから、8年が経っていましたが、うつ病の症状は波はありましたが、寛解することはなく、発達障害(ASP)だとも診断され、どのようにして生きていけば良いのか分からない状態でした。 そんな中で、テレビからは、新型コロナウイルスによる社会不安が連日報道され、有名人の自殺・病死の
なぜぼくは他人の気持ちを、おもんぱかることができないのだろうか? 大体の人は、初対面の人と話しをすることになれば、その相手を知ろうとさまざまな疑問や質問を投げかけ、その人のことを知ろうとするでしょう。 だけど、ぼくにはそのようなことができない。それは今に始まったことではなく、昔っから相手を知ろうと質問をしたりすることができない人間だった。 他人に興味がなかったのかもしれない。下手な質問をして、相手を嫌な気分にしてしまったり、傷つけてしまうことを恐れていたのかもしれない。
ぼくはいつから、人と話す時にあんなにも怯えたようになってしまうのだろうか? 以前なら、そんなことはなかった。ごく普通に、目上の人ならそれなりの敬意を払いながら話しができていたし、ある程度親しい間柄であれば、冗談のひとつくらい言いながら話すことができた。 しかし今は、相手を前にすると、後ろめたさや、「話しをどこまで理解してもらえるのだろう?」「心の中ではバカにされているのではないか?」などの猜疑心が出てきて、本当の自分の状況や気持ちを話しているのに、「どこか嘘を言っている」
今まで何度、人間関係をリセットしてきたのだろう? 自分勝手な考えで、衝動的(先生によると、ASDにADHDの衝動性が合わさっているとのこと)に、後先も考えずにリセットしてきた。 もちろん、リセットされてしまった相手のことなんて、考えれるはずもなく…。 そんなことばかりしていたら、当然、ともだちなんて呼べるような人などいないし、悩みを相談する相手も、何気ない世間話をする相手すらひとりもいません。 にもかかわらず、自分勝手なぼくは、「この苦しい思いを誰かに聞いて欲しい」「悩み
10月25日、市役所の福祉相談室にある、家計相談というものを受けてみた。 きっかけは、以前お世話になっていた、障害者就業・生活支援センターで社協の日常生活支援というものに、金銭管理をしてくれるサービスを利用したいと話した時に、センターの相談員さんから、市役所に家計相談というものがあるよ、と教えていただいたのが始まり。 結局、その時には利用する事もなく、センターとも支援事業所とも、自分のわがままで疎遠になって、それっきりになってしまっていた。 しかし、自分の浪費癖はますます
孤独が怖い。 今まで、何度も人間関係をリセットしてきたのだから、自業自得であるのは、百も承知です。 それでも、この先一人で生きていけるもないわけで、誰かと話しがしたい。コミュニケーションが取りたい。と思ってしまう。 だからと言って、誰かと接する機会もなければ、たとえ誰かと仲良くなったとしても、嫌われるのが怖い。今までのように、嫌われて関係を断たれたり、嫌われて話もしてもらえなくなるのが怖い 昔から、誰かと一緒にいるよりも、一人で気ままに出掛けたり、一人で過ごす時間が好き
性懲りも無く、死ねると思ってもいないのに、フルニトラゼパムを120錠接種した。 当然、死んでるわけでもなくて、8時間後に目が覚めた。 立ちあがろうとすると、ふらついてまともに立ち上がれないし、真っ直ぐ歩けに、しぐに転んでしまう、頭ぼーっとしているし、このnoteを書こうとしても、タイプばかりしてなかなか書き進めない、 頭もぼーっとしていて、考えがまとまらない、以前にも10錠ほど錠飲んで同じようじゃあ症状になっがけれど、それより酷い感じ。 特にタイプにすがひどくて、何度も
自分が思ったことを、その時の勢いだけで書き上げて、公開した文章を、貴重な時間を使って読んでくださる方には、本当にありがたく思うと同時に、なんだか申し訳ない気持ちになってしまいます。 その上、好きを押してくださる方、ほんとうにありがとうございます。救われる気持ちを感じています。
なぜ、わざわざこんなにつまらない人生を選んで生きてきてしまっったのだろう? 選んだことすべてがハズレくじのような人生。 本当にそうしようもなく、つまらない人間だな。