生き方と人生について。【お気持ちポエム】
「―そもそも、自分の生き方なんて見つけてたんですか?」
きっかけは、ある友人が発した何気ない一言。自らの才能に絶望し、生き方を見失って精神を病んでいた私は、彼の言葉に大いに唸らされた。
俺の生き方って、なんだ。
俺の人生って、何なんだ。
彼に生き方を問われて、すぐさま言い返すことのできない薄っぺらい自分を呪った。
私は、中身のない人間だ。結局、私は用意されたレールの中でよりよいものを選ぼうという発想しかない。荒野を切り開いて新たな人生のレールを敷いていくパワーもメンタリティも私にはなかった。親や学校を言い訳にして、安全な道を行こうという臆病な人間だった。
更に言えば、私は自分に甘い。楽な方へ流れることを良しとして、結局何もしない。そして、「自分の心を守るため」と称して、自分の人生に嘘をつき、努力しないことを正当化する。これでは、自分の人生を生きられるはずもない。生き方など見つからなくて当然であろう。
では、”自分の人生を生きる”、とは何なのか。どうすれば自分の”生き方”を見つけられるのか。
インターネットで「人生 生き方」と調べてみたり、稲森和夫さんの著書「生き方」をタイトルだけで衝動買いしたりした。そして、そんな中であるサイトの一言が私の目に飛び込んできた。
「自分でモノを考えるという癖がついていない人間は、発想が貧困で、その上思いついたことを実行に移すための胆力も自信もない。だから自分の人生を自分自身で創ることができない。」
図星だった。
たった今、私は生き方を”調べていた”。
思い当たる節も数え切れないほどあった。ありすぎてアリになりそうだった。私は自分でモノを考えるということから逃げていたのだと、今更のように自覚した。
スプラが下手くそで、でもその中でリッターがちょっとだけ使えるのにも合点がいった。
「リッターだけが思考しなくてもそれなりまでは戦える武器だから」。
リッターの才能があるなどと内心驕っていた自分の心を恥じた。
思えば、私は今まで「考えるフリ」をし続けていたように思う。
良くないところを見つけるたびに、「どう改善するか」ではなく「なぜ自分はこんなにもダメなんだ」と自己嫌悪に酔っていた。
去年だったか、ふと目に留まってプレイした「ALTER EGO」でも、似たようなことを言われた。
「すべてを自己完結的に、自己破壊的に解釈し あなたは孤独を進んで選んでいるみたい。自分を責める負の快楽に酔っているでしょ。」
正直、自分の本当の弱さと向き合うのは怖くて仕方がない。
今のままで、そっとしておくという選択肢に逃れたいと何度思ったかわからない。自分のことが信じられないから、一歩踏み出すという挑戦をして自分を変えていくなんて不可能だと今でも思う。
けど同時に、今私が自分のことを信じられなかったら、成功体験を得ることはなく、一生自信を手に入れることは叶わず、ずっと逃げ続けることになると思う。
今ここから、私自身が考え始めなければならない。
自己肯定感を与えてくれる慈愛に満ちた女神など、この世のどこにも存在しない。
他人の才能を羨み、うじうじしていても誰も救いの手を差し伸べてくれることはない。
私自身を救うことができるのは私ただ一人である。
自らを戒めるためにあえて強い言葉を選んだ。もう先延ばしはできないのだ。崖はもう目の前なのだ。
まずは世界を「なぜ?」の目で見ること。少しづつ、思考する力を磨いていく。
10年後の私が、私自身を救い、幸せな人生を送っていることを祈願しながら今日はひとまず眠りに就こうと思う。