年明けは衝撃続き③
12日、主治医から治療計画と容態についての説明があった。
義父、カミさんと三人で話を聞くことにしていたので、少し早めにカミさんの実家へ。
昼飯前に到着。行ったり来たりするのが、面倒なので家で摂ることにした。
義父は何か、ご馳走を出してあげたそうだったが、 「家にあるものでいいから。」と断る。昨日、一昨日のオカズでもいいかな、と思っていたら、義父が「パンあるべ!昼だば、いつもパンだ!」と。
あんパン、ジャムパンとかの甘さ多めの菓子パン系のオンパレード。
「あぁ、毎日こんな昼飯で過ごしていたんだ。そりゃ大したことが無いオカズ持ってきても喜ぶはずだ!」とつくづく。
義母は面倒くさかったのか?それとも、これで十分だと思っていたのか?答えは今となっては闇のなか。
三人でパンを食べてから病院へ向かう。
退院する人、自分たちと同じように説明を聞きに来た人で四組くらい待っていたようだった。
説明まで15分くらい待ったと思う。腹の調子がイマイチでトイレに行ったら、向かった先々で清掃中という。。。
腹をスッキリさせて、主治医からの説明を聞く。
つい先程終えた昼食から、口から食べるようになったということで、鼻から栄養補給のための管は外したとのこと。
想定より良くなっており、懸念されていた内臓関連の脳細胞まで影響はでていないとのこと。だが、左半身不随はそのまま。リハビリをすると車イスへは乗ることが出来る可能性もあるとのこと。
今後はリハビリ病院へ転院になる。県内の二、三の医療機関を進められる。
個人的には、足が無い義父を考えると近い病院で良いと思ったのだが、それは家族で決めてもらわないとなぁ。
オレが主治医へ「リハビリが終わったあとの介護はどうなりますか?」と尋ねる。
主治医は「退院後は、在宅介護するご家族もおられますが、かなりの覚悟が必要になります。身の回りの世話の他、家屋の改造とか色々と発生してきます。施設入所が多いですが、ご家族で慎重に話し合って決めて下さい。」と。
昭和、平成前期の常識であれば、半身不随くらいであれば、娘、嫁が献身的に介護しなければならないというバイアスが世の中を支配していた。果たして、それは正解なのか?
それは親を早く亡くして介護をしたことがなく、親孝行不足だったと思っているヤツらの幻想でしかないと思う。
当然、認知症の義父は、二人分の炊事、義母のトイレ、入浴、着替えのほか、自分の薬も容易でない投薬など出来るわけもなく。
うちのカミさんは二人の子供は育て上げた。ただ、それはある程度の終わりが見えるから頑張れた。順番を考えながら、物事を進めること、マルチタスクでものを進めることが大の苦手なカミさんは、終わりが見えず、想定外のことが増える介護みたいなものは無理だと思う。
今回の説明は次のリハビリ病院への道筋確認で終った。そのあとは転院してからの検討事項に。
義父は面会出来るものだと思っていたが、感染症対策で面会は出来ないことになっているので面会は叶わず。
多分、義父は退院できるばかり思っていたようだ。どうして、子供、妹たちとの面会の許可をしたのか理解していなかった。
だよなぁ、延命処置有無の念書の説明も理解出来なかったしな。念書については、家族で話し合って「無」で提出したようだ。
自分のオヤジとオフクロのことと比較すれば、症状が悪い方が入院したから、それなりに過ごすことは出来たのだが、今回は逆なのでキツいよなぁ。
一日おいてカミさんが実家に向かった。
用事があり、昼過ぎに帰宅しようとしたら、小銭を渡したときに財布へいれずにポケットに入れていたので聞いてみたら「財布入れてるバッグ無くした」と。
探しても見つからなかったので、カミさんは仕方なく帰ってきた。
家についてから10分くらいして義父から電話。聞き耳をたてていたら、
「バッグあった。アソコのアレどご寄せだば、アレの上さあったっけ。」って。
結局、何処の何を寄せて何の上にあったのかわからない( -。-) =3
多分、義父は義母が以前のような姿で退院出来ると信じているのだろうな。。
「 アレどこだ 以心伝心 遠きけり
もう戻らない 睦月の夜更け 」