
戦時下を描いた絵を見て、「自律した上で自立すべき」という気概について思う
1
昨年11月2日に広島で開催された「ゴー宣道場」をきっかけに、被爆された方々が描かれた絵を見ることの意義を感じて、👇の3冊を図書館で借りて読んだ。
当事者の描く絵の凄まじい力を感じた。
これは手元に置いておかねばならない、と思い、3冊とも購入した。
しかし、NHK出版の2冊は、何と絶版であった。
古本で手に入れたのだが、正直NHKを名乗る出版社なら、この2冊は何が何でも販売し続けるべきなのでは・・・?と思った。
以下のページに、上記の本に掲載されている絵が公開されている。
広島
長崎
絵画技法を駆使した上手い絵よりも、素朴な絵の方が、この米国による大量虐殺の悲惨さを強く物語ってくるように感じた。
夏の花、廃墟から、屍の街、長崎の鐘、などの被爆者による原爆文学と同様の凄みを感じる。
確かに写真資料も存在しているが、写真として残っているのは、原爆投下翌日以降の街や人々の姿である。原爆投下直後の街の状況や人々の姿は写真として残っていない。だから、被爆された方々の記憶が、資料として非常に重要なのだ。
また、写真は客観的ではあるが、「個々の体験」までは記録されない。
絵は、描かれた方の記憶だけでなく、体験に対する想いも反映される。
だからこそ、写真よりも生々しいのだ。
2
それとともに、👇の本も借りた。
こちらも手元に置いておきたいと思ったが、やはり絶版だったので、古本で手に入れた。
見出し画像は同書から引用させていただいた。
👇の記事のフォトギャラリーで掲載絵画のほんの一部が閲覧できる。
私の父親は、少年時代に名古屋の大空襲を経験していた。目の前で人が燃えたり、腕が吹っ飛んだりしたことなど、よく話してくれた。
大阪と名古屋の違いはあるが、この本の絵のような風景を、父親も見ていたのだろう。
私としては、米空軍は焼夷弾攻撃のみならず、機銃掃射により民間人を個別に狙い、撃ち殺していた、という奴らの「明確な殺意」を忘れてはいけないと感じた。
さらに忘れるべきではないのは、米空軍による第八次大阪大空襲は終戦前日の昭和20年8月14日である。日本政府が8月10日にポツダム宣言を受諾していたにも関わらず、である。本当に酷い奴らである。
このような本を「サヨク」とか「偏向」などと敬遠する人々は少なくないようだが(その発想が私には意味不明なのだが)、これは主義主張は関係なく、全ての日本人が見ておいた方がいい。
語り部の人々が年々少なくなっていく中、これらの絵は、当時、キノコ雲の下で、焼夷弾の雨の下で何が起こっていたのか、その下にいた方々は何を想っていたのかを雄弁に語ってくれる。
感情が動かされる。そして想像力も動く。これは「客観的事実」だけでは得られない感覚だろう。
3
この悲惨に向き合って初めて、二度とわが国がこういう目に合わないためにはどうすればいいのか、どうすれば次世代の人々がこういう目に合わないで済むのか、を真剣に考えることができるのではないか?
そして自省する。
自分は、「戦時下」という状況に対して疑似体験に近いほどに想像力が動く経験が、あまりにも少なかったのではないか?どこかで他人事のようにとらえているのではないか?と。
その上で思う。
戦争という手段を辞さない相手に対して、「9条保持」や「非戦」を叫ぶことに何か意味があるのだろうか?それで国土を守ることができるのだろうか?
自衛のための「軍」を持つことのみならず、軍事をシビリアンコントロール下に置くことさえもできない憲法を放置しておいていいのだろうか?
「米国の不沈空母」として国防を依存したままでいいのだろうか?
「米国の核の傘の下」でいいのだろうか?
傘の下から脱して「核武装」した方がいいのではないだろうか?
そもそも「アングロサクソンについていけば百年安泰」なのだろうか?
なぜ米国をそこまで信用できるのだろうか?
かつて自国の国土を蹂躙し尽くした国であるというのに・・・!
そんなものは理想論だマッチョ思想だ、と空笑する人がいそうだ。
でも、忘れてはいけない気概ではないだろうか?
できるかできないかの問題ではなく、
心の奥底に秘めておかなければならない、行動や思考の根拠としなければならない、そんな気概ではないだろうか?
その気概を忘れた結果としての醜態が、自身のコロナ対策下における発言と現在の発言の矛盾にすら気付ずない「多数派」や、下世話なホラ話に扇動されていることにすら気付かずにお祭り騒ぎを続けていた「衆愚」なのではないだろうか?
つまり、この「『自律』した上で『自立』すべき」という気概は、大局的事象で必要なのは当然だが、それ以上に個々の日常的事象においてこそ重要なのだ。
大局を語りたい者こそ、日常を大切にしなければならないのだ。日常の中でその気概を持ち続けなければならないのだ。
そんな戒めのためにも、これらの絵は折々に触れなければならない。