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第一のムラ、第二のムラは共に衰退する。

 私は全く知らなかったのだが、1か月ほど前に福井県池田町というところが話題になっていたらしい。移住してくる人々に対する注文を列挙した文章が気に障った人が多かったようだ。

 私も読んでみたが、正直「気持ち悪い・・・」とつぶやいてしまった。
 おそらく、本当は過疎化に対して危機感を持っているわけではないし、住民も今の状況であり続けることを望んでいるんだろう。
 残された数少ない次世代が困窮するかもしれないことも、地域が消滅することも、本当はどうでもいい。わしらが生きている間だけ地域が存続してればそれでいい
。そんな本音が聞こえてくるような内容だった。
 でも、私の感じる気持ち悪さはおそらくこの町に対するだけのものではない。これは、都市部に住む人間が「これだから田舎は・・・」と他人事としてとらえる問題ではない。むしろ、「日本人そのもの」ではないか?!

かなり押しつけがましいけれど、最もな内容かもしれない。意識しないと住環境はあっという間に悪化してしまう。環境保全のためのシステムは必要だ。この辺はぎりぎり同意できる。

この辺りから怪しくなってくる。つまり、我々はあなたの価値観を認める気はない、我々が変わる気もない、多様性などくそくらえ、と言いたいようだ。

「品定めされる」のが「自然」である、と公式文書に書くことができるセンスが、どうしても理解できない。「愛情」ね、それは一般的に「排他」と言うんじゃないでしょうか?と思う。
こういう感覚がハンセン病患者絶対隔離などの差別的政策の温床になったんだろうな。

ここだけは完全に同意できる。日本においては、自然は常に脅威だ。

結局、第4,5,6条が本音をぶちまけすぎなのだ。次世代の将来と地域の存続が考慮されているとは思えず、いい大人が書いたものと思えない。大人がこんなことを、ましてや公的な文書で、言ってはいけない。
でも、これ、都市部の住宅地やマンションや会社や学校でも同じような感じなのでは?日本人がコミュニティーを作ると、程度の差はあれ、こういう気持ち悪い空気が出来上がるのでは?

以下、👇の終章の内容を参照かつ引用する(最近再読したが、やはりこの本は示唆にあふれている。特に第3,4、7、9、終章が刺激的だった。)。

神島二郎氏の「近代日本の精神構造」という書物を参照し、

・・・都市化の中で、都会に移り住んだ多くの日本人が都会に作った組織中の人間関係が自然村的秩序の転移として擬制村的秩序=「第二のムラ」というべきものであった
(中略)
自然村的秩序の特質は、稲作や祭りへの参与を通して形成される情動的連鎖反応を軸とした共同性にあった。物事の決め方としては、それは全員一致方式になることが多い。
(引用者注:だから、情動を共有できないよそ者は邪魔なのだ)

「情動的連鎖反応を軸とした共同性」「全員一致方式」「世の中の大勢」「皆が進む方向についていきさえすれば安全」として「群れに従う性質」「都合のよい方へまわろうと」する「大勢順応主義」などが、日本の自然村的秩序いわば「第一のムラ」を特徴づけるものなのであった。

そして、神島によるとこの「原理」がそのまま「第二のムラ」にも持ち込まれたという。
(中略)
日本人が大衆社会の形成プロセスで作った人間関係は、(中略)基本的に農村共同体と同質のものだったというわけである。それが同調型体質を強く持っていることは当然のことともいえよう。

以上、太字は引用者。
つまり、この池田町の文書は「第一のムラ」の本音であり、それは「第二のムラ」にも引き継がれている。だから、日本である以上、都市部も根本的に本音のところでは同じなのだ(引用元では上記の考察を元として、日本人が国外情勢に過剰に同調するのはアニミズム的感覚が影響している、という考察が続いており、実はそれが非常に興味深い。しかし、本筋から逸れるので省く)。
都市部であっても、
「少子化にも、次世代育成にも、ほとんど関心はない。
次世代が困窮するかもしれないことなど、どうでもいい。
わしらが生きている間に国が存続してくれていたらそれでいい。
今、自分がそれなりに問題なく暮らせているなら、それでいい。
多様性なんかで今の暮らしを乱されたくない。変わりたくない。」

と考えているとしか思えない、あまりにも無責任な大人だらけではないか。いや、そもそもこんなものは大人とは言えない。成熟にほど遠い、ただの「年長者」だ。歳だけ食った、ただの「年長者」だ
そうか、これから「大人」ではなく「年長者」と言おう。大人を名乗れるのは、「成熟した年長者」だけのはずなのだから。


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