次々に現れる医療技術との向き合い方を考える①~~「我々」と「医療」の関係はコンヴィヴィアルなのか?
下の記事にて、mRNAワクチンという概念そのものに対する疑念を述べた。
「mRNA医薬を「ワクチン」として使用すること、つまりヒトにとって病原体となる物の一部を自己の細胞に発現させる、という発想自体に、問題があるのではないのかね?この技術は、有用なタンパク質を発現させる「治療薬」としての利用にとどめておくべきなのではないのかね?今後の開発のためにも、そこをはっきりさせておくべきでは?と、老婆心ながら思ってしまう。」
今回のこともそうだが、医療に関係する技術、特に医薬や検査技術の発展が、かなり危険なレベルに達しているように感じる。それを警戒する論は過去も現在も少なからず存在しているのに、この傾向は日々悪化するばかりのように感じる。
平成15年に「日本学術会議 生命科学の全体像と生命倫理特別委員会」が発表した報告において既に危機感が示されている。しかし、この20年近く、何も対策されていないどころか、特に①②⑤に関しては、事態はますまず悪化しているのでは?と思えてならない。
そろそろ我々医療従事者は、次々に現れる技術に対する態度について、本気で改めなければならない、と感じる。もっと批判的であって然るべきなのではないか、と。
そこで、イヴァン・イリイチが1973年に発表し、日本でも訳本が出ている「コンヴィヴィアリティのための道具」に影響を受けた書籍から、この点について考えてみたい。「コンヴィヴィアリティ(conviviality)」はこの本の訳者である渡辺京二氏により「自立共生」と訳されている。
イリイチによると「現代の科学技術が管理する人々にではなく、政治的に相互に結びついた個人に仕えるような社会、それを私は"自立共生的(コンヴィヴィアル)"と呼びたい。」とのことである。
さらに、イリイチに直接師事した山本哲士氏によると、「他所の異質なもの、そしてある限られた時間、そして相反しているものが共存しえたとき」をコンヴィヴィアルと表現する、とのことだ。
(なお、先に言い訳しておく。本来なら上記の本を参考にするべきなのだが、私の読解力不足ゆえ、読んでも内容が頭に入ってこない、作者の熱量に頭がついて行くことができない。困ったことに・・・なので、影響を受けた書籍に頼らざるを得なかった・・・)
と言うわけで参考書籍👇書籍のHPがあるよ、すごいな・・・
と、ざっくりまとめてくれている。
ここでいう「道具」とは、ハンマーなどの道具そのものだけではなく、「教育」「医療」「労働」「政治」「法」などの、の全てを示している。
人が「使う」ことができ、「作る」ことができること、そして誰かが作ったものであっても自分で「作り変える」ことができるもの、カスタマイズできるもの。さらに「手放す」ことも可能で、他の道具を「選ぶ」ことができるもの。つまり、あくまでも人間が主体的に取り扱うことができるもの。依存するものでも、ましてや隷属するものでもない。
ここでいう道具とはこういう概念である。
道具と人間がコンヴィヴィアルであるために注意すべき点がある。
人間がある道具を手に入れて年月を重ねると、やがてそれが身の回りにあることが自然なこととなる。本来はその道具によって得た能力だったはずなのに、道具の存在に無自覚となり、その能力を持っていることが当たり前、と感じるようになる。あまりに当たり前な存在であるため、そこに組み込まれている技術や思想に意識を向けることができなくなる。道具はブラックボックス化する。
ブラックボックスと化した道具は、「提供する側」と「受け取る側」を、いつしか「管理する側」と「管理される側」という関係性に変化させる。そこに分断が生まれる。道具は、「管理される側」の主体性を奪い、操作し、隷属させるもの、となる。
道具が以上のような存在になるまでに2つの分水嶺がある、という。道具が人間の能力を拡張してくれるだけの力を持つにいたる「第1の分水嶺」と、上記のように行き過ぎた「第2の分水嶺」である。つまり、道具を人間にとって「ちょうどいいもの」とするためには、2つの分水嶺の間に留め置かなければならない。それにより、道具との共生が可能となる。その道具はコンヴィヴィアリティなものである、という事ができる。
では道具が第2の分水嶺を超えていないかどうか、判断するためにはどのような点に注視すればいいのか?(続く)