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「常識」は、「知識」や「因習」ではない!!

 以前から「常識」という言葉が非常に軽く扱われていることが気になっていた。いや、それは「常識」ではなく、「因習」または「知識」ではないのかね?と感じることが多い。
 確かに因習や知識の受容には慎重であるべきだ。でも、常識をそれらと同じように扱っていいのかね?という疑問だ。

「常識」はデジタル大辞泉によると「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。」とある
普通の知識、とは何?知識と判断力は結構別物のように思われるが?
「常識」は明治に作られた "common sense" の翻訳語なので、歴史の浅い言葉である。ゆえに、そもそも日本語で説明しにくいものなのかもしれない。
だからこの言葉の示す意味は ”common sense” 自体の意味を知らねばならない。
そこでCollonsとOxfordのオンライン英英辞典を参照した。

https://www.collinsdictionary.com/

Collinsでは
Your common sense is your natural ability to make good judgments and to behave in a practical and sensible way.
Oxfordでは
the ability to think about things in a practical way and make sensible decisions
とある。
 和訳してみようと思ったが、 "practical" と "sensible" が普段使う訳語ではしっくりこない。細かいが、この2つの単語の意味も英英辞典で調べてみた。
すると、
"practical" はOxfordによると
”connected with real situations rather than with ideas or theories”
とのこと。「理屈や空想ではなく、目の前の現実に則している」とでも訳しておく。
また、"sensible" は同じくOxfordによると
”(of people and their behaviour) able to make good judgements based on reason and experience rather than emotion”
「理性や経験に基づいた良い判断を下すことができる」ということか。

以上を踏まえて、"common sense" の意味は
Collins「良い判断を下すことができ、かつ実情に則した根拠に基づいたやり方で行動することができる、生まれつきの能力
Oxford「物事を実情に則して考え、根拠に基づいた判断を下す能力
となる。これが「常識」の本当の意味だ。
つまり、「常識」は「能力」なのだ、と・・・このあたりの感覚に、人間理性を過剰に評価する西洋的な考え方を見てしまう。そして、西洋人が自分たちの価値観を自信満々に振りかざす原因なのかもしれない。
しかし、このような「常識」を「天賦の才能」みたいに考えることは、私にはわかりにくい感覚だ。
だから、「物事を考え判断する際に用いられる、(天から等しく与えられた能力と見間違うほどに)人として当然持っているべき前提」ぐらいにしておいた方がしっくりくる。

おそらく一般的に我が国で使用されている「常識」は "common sense" ではなく、 "common knowledge" のことが多いのではないか
"common knowledge" を英英辞典で見ると
Collinsでは
something widely or generally known
Oxfordでは
something that everyone knows, especially in a particular community or group
広く、一般的に知られている物事
みんなが知っている物事、とりわけ特定のコミュニティやグループにおいて
両者のニュアンスの違いが興味深いが、少なくともただの「知識」であることは同じだ。

さらに"convention"であることも多い。
Collinsでは
A convention is a way of behaving that is considered to be correct or polite by most people in a society.
Oxfordでは
the way in which something is done that most people in a society expect and consider to be polite or the right way to do it
社会におけるほとんどの人々にとって、正しいまたは礼儀に適っていると考えられている行動様式
「ある事を行う際にとられる、社会におけるほとんどの人々礼儀に適うまたは正しい方法だと考えるやり方」(←意訳が過ぎるかも・・・)
これを一言で言い表す訳語がある。「慣習」や「因習」、である。

つまり、「常識」という熟語の中に、"common sense" と "common knowledge" と "convention" が入り混じっているようなのだ。
なぜこのようなことが起こるのか?
恐らく、この「常」と「識」という漢字が持つ意味が、あまりにも広すぎるからだろう。
日本漢字能力検定協会の漢字ペディアより👇


①つね。いつも。いつまでも変わらない。「常時」「平常」
②ふつう。ありきたり。なみ。「常識」「常人」「尋常」
③とこ。つねに変わらない意の接頭語。「常夏(とこなつ)」「常闇(とこやみ)」
④「常陸(ひたち)の国」の略。「常州」


①しる。考える。さとる。物事の道理を見分ける。「識別」「識見」「認識」
②知ること。考え。「見識」「眼識」
③知り合いになる。知り合い。「面識」
④しるす。しるし。「識語」「標識」

つまり
「ふつうに知ること」(≒ common knowledge)
「ありきたりな考え」(≒ convention)から
「いつまでも変わらない物事の道理を見分ける」(≒ common sense)
まで、かなり広範囲の意味を「常識」という熟語は表現してしまうのだ。
これは甚だ危険なことである。
「常識を疑え」「常識を捨てろ」などという言葉に騙され、「物事を考え判断する際に用いられる、(天から等しく与えられた能力と見間違うほどに)人として当然持っているべき前提」まで捨て去ってしまった者は、もはやそれは人ではなく、獣である。

そして、そのようなあまりにも広い意味を表現してしまう熟語は「常識」だけではないのだ。
漢語と和語を併用する我々が陥りやすい思考の罠であるが、特に警戒すべきは明治の翻訳語だと思われる。
それに関しては以下の柳父章氏の書が非常にわかりやすく、かつ刺激的だった👇

補1

タイトル画像は明治14年発行「哲学字彙」(井上哲次郎編著)より。
新明解語源辞典によると、"common sense"に「常識」という訳語を用いたのはこの本が最初と思われる、とのこと(同書p.483)。

補2

同じく新明解語源辞典によると、
明治の啓蒙思想家である西周は、「通常良知」という言葉に「コムンセンス」という仮名を振っていた、という(同書p.483)。
「良知」は、「孟子」の中に出てくる言葉であり、「人が生まれながらに持っている正しい知力。是非・善悪・正邪を知る心の先天的なはたらき。」(精選版 日本国語大辞典より)である。
これはすごい。"common sense" 本来の意味をしっかりと表現されているではないか!「常識」という曖昧な言葉より遥かに優れた訳語だと思うのだが。


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