
自分をあきらめないで~
「母親の愚痴を聞かされて育った女性は、モラハラ男性やパワハラ男性に会いやすい、または男性を信じることが難しい」というもっともらしいことを
聞いたことはありませんか。
これ、何十年も前から言われていて、私もずっとその言葉の呪いにかかっていました。
ただ「何かがおかしいぞ」ということだけは感じていて
それを言語化することができないでいました。
この日本で、母親の愚痴を聞かずに育ったことのある女性がどれだけいるのかと私はまず、思います。今の日本で、愚痴を言わずに結婚生活を送れる女性がそんなにいるとは思えません。
そして、愚痴を言わずとも、その代わりに何かで紛らわせている可能性は大いにあります。
たしかに、長女でなければ直接の被害を受けずに済むかもしれませんし、別に話し相手がいて、娘には話さなかったケースもあるかもしれません。
それはとてもラッキーな話ですね。
で。
祖母からは「姑に虐められた話」「戦時中に女一人で大変だった話」母からは「父への愚痴」をさんざん聞かされた私ですが、それなりに結婚して幸せな暮らしをしていました。
なぜかというと、これすべて「日本における構造の話」だと私は思っていたからです。男性に問題があるわけではなく、そういうシステムがあるのだと。
なので、私は、息子たちに自炊を教えましたし、息子の世話をし過ぎることもありませんでした。「男の世話をするのは女の役割である」と意識させないようにしたわけです。これが構造の問題。
ただ、離婚してから、再度この問題に私はぶち当たります。
離婚した年齢もあるのでしょうが、パートナーになる人が見つからない問題。そこで「母親の愚痴を聞き過ぎた女性は・・・」というのをまた聞く羽目になったわけですね。
今ならわかります。無理やん。
「男性を頼り過ぎず、でも、かわいく頼れる女であれ」なんて。
あまりにも男性に都合よすぎ。
そこに自分を当てはめようとするのは、無理ですね。
そもそも、この家父長制にマッチできてしまった「父親にかわいがられた」あるいは「お兄ちゃんに従っていたら平和だった」ような娘であれば
同じように振舞っていれば、この日本ではうまくいく。
それだけのことです。
ただ、本当に自分の魅力を全開にして生きていれば
必ず好意を持ってくれる男性は現れますし、そこは心配していません。
そして本題です。
離婚してから、様々な出会い(マッチングアプリだけじゃないですよ、サークルとか習い事とか仕事とか)をするうちに
「長く結婚している人も、そんなに幸せそうではないな」ということに気づきました。
いや、幸せだと本人は思ってると思うんです。
それに対して文句を言うわけではないです。
それでいいし。
私から見て、という話です。
なんか小さくまとまってんなって。
夫がいないとどこにも行けないのかなって。
くすぶるものを隠して、それを関係のない文句を言ってもかまわないようなところにぶつけてくる人もいるなあって。
それぐらい、色んなものを抑えている。
抑圧の大きさがなんとなく見て取れるのです。
結婚が幸せというのが真実であれば、こんな風にはならないんじゃないかな。
男はもう結婚の上に胡坐をかいているわけです。
社会的に成功した人間として。
結婚と言う切り札を持っている以上、誰にも文句言わせないとばかりに。
だから、結婚生活で妻を相手に努力する男は稀です。
妻ばかりが「どうしたらこの男とうまくやれるのか」に日々心を砕いている。なんでや。
そんな暇があったらもっと楽しいことを考えて生きていったほうがいいんじゃない?と思えるぐらい。
徐々に妻は「楽しい」という表情を失っていく。
心から楽しそうな、結婚している女性、あんまりいなくないですか?(新婚を除く)
子どもが生きがいとか、孫が生きがいとか、そうなればいいかもしれないですが、それ、子ども側から見て嬉しいかどうかは別ですよね。
そう、ここで子どもが反抗したり、子どもが不登校になったりしたら、一気に幸せでなくなってしまう。
(孫が挨拶してくれないみたいな悩み相談があるらしいです、信じられんけど・・・)
大事なのは「自分がどう生きたいか」です。
ひとりでどこにでも行けるか、ひとりで好きなことを楽しめるか
心から笑えるか。
それが結婚で手に入ると思いますか?
パートナーシップを学ぶ時期はあります。それも大切な学びです。
でもそれは一生やることではないです。
学びに終わりがあるし、そうじゃなければ学んでないということです。
母親の愚痴を聞かされていたから私は幸せになれない、なんていつまで信じているんだろう。
母親はただ素直だっただけ。だって女性にとって結婚ってそういうものだから。そして姑にいびられてどこにも誰にも言えず、孫についその話をしてしまうとか、仕方ないよね。
子育て中はなんとかなります。母親としてしっかりしなくちゃいけないし。
けど、子育てが終わって夫婦だけになった時。
抱えていたうっぷんがどこに向かうかです。
それこそ嫁いびりをする人もいれば、部下にちくちく意地悪をする人も。
孫に期待をかけて厳しすぎるおばあちゃんになる人も見ました。
推しを見つけて追いかける人もいますね。
本当は夫に優しくしてもらいたかった、満たされたかった、
。。。のではないかな。
そういう鬱々としたものを心に抱いて老後を生きていくのかな、みたいな女性はけっこういて、でもそれって「結婚は素晴らしいもの」という幻想の行きつく先というか、なんというか。
ひとりじゃないというのは、不安要素が少ないという意味で、生存のために必要なことではあるけれど、人間いつかはひとりになりますし。
私は今、思うんです。
人間は、自分の欲を適切に満たしてやることが必要なのでは?って。
どんなに悟ったようなことを言ってても、「あきらめ」の悟りであれば、それは嘘です。あきらめなさい、と言い聞かせるほど無駄なことはないですよ。
その意味で、結婚ってなんだろうなと私は思います。
欲を抑える効果しかない。欲を満たす方向に向きにくい。
不満ばかり溜まってしまう。
だからこそ幻想を振りまかなきゃいけないんじゃないかと思うんですね。
子育て中はそれで乗り切るしかないですし。
今の私には解決策など思いつかないし、私の姿を見て「妬ましい」と思っちゃう人がいるのも事実ですが
心の平和を求めるのであれば、「欲を満たす」は必須です。
満たしてしまえば、憑き物が落ちたように落ち着きます。本当に。
なので
自分を幸せにすることをあきらめないでほしい、ということ。
どんな状況にあっても。
それは過去が問題ではなくて、母親の問題でもなくて
今の自分をあきらめないという姿勢だけです。
長く一緒にいると依存してしまうのもわかるし、もうそれは身に着いてしまって取れないかもしれない。
それでも、なんとか自分を生きてみてほしいです。
いきいきしている他人を妬ましく思う自分と向き合って。
私は10年かかりました。20年の結婚でしたから。
自分の中の醜いものや、満たされなかった思い、
そういうものと対峙して自分を満たそうとしてやっと。
しんどかったけど、やってよかったと思っています。
それぐらい自分の中身が変化しています。
左脳が~とかぐるぐる思考が~とかで消えるようなものではないんです。
ただ求めて満たしてやる。満足するまで。
その先に「あ、もういいや」がやってくる。
先に「虚しさや悲しみや寂しさを感じたくないから」と悟ろうとすると
残った満たされなかった気持ちが、「悟った私だからなんでも叶うのよ」みたいな変なことになっていく気がして。
命を輝かせるってそういうことなんじゃないかなと私は思います。
人間なんだもの。
あがいてもがいて生きていくことが輝きなんじゃないかな。
無理に悟ろう、諦めようとしなくていいよ。
今日、急にね、母親が毎年3月3日にフルーツ入りの寒天を作ってくれていたことを思い出しました。20年ぐらい忘れてたんですよ。
楽しい記憶も封印するほど、自分の中にある満たされなかった思いが叫んでいたみたいです。いっぱい叫んだから、満足してきたみたい。
女性の抑圧を、自分自身が解放して見せていくことが
私の今の仕事なのかも。
明日はひなまつり。