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居場所があればいいってもんじゃない
居場所居場所と言われて久しいです。
不登校の子どもにとって
どこに行けばいいのという話だったり
家庭に居づらい子どもはとか
色々あるけれど。
けど
誰だって、その場が合うか合わないか問題があるわけで
学校は強制されてるから行くのであって
そして、学校は大きいから、どこかに自分の居場所をそっと
見つけて行くことだってできるけれど
不登校だからここに行きなさいと言われる場所、そこが
たとえ素敵なフリースクールだったとしても
自分にとって居心地がよくなければ
行きたくないのは自然なことです。
私は誰かと楽しく過ごすのも好きだけど
一人の時間も絶対に必要だったから
昼休みは図書室にこもっているような学生でした。
今も一人暮らしですが、特に寂しいと思うこともほとんどなく
一人で食べるご飯はとても気楽です。
「ひとりぼっちはよくない」などと言われたり
子ども食堂やらなにやら、作ってくれるのはいいんだけど
「そこの雰囲気」が「あんまりかなあ」って思う人も
いるんじゃないでしょうか。
適度な他人との距離感、スタッフとの関係、スタッフ同士の雰囲気
そういうすべてのことが
「そこに行きたいかどうか」と決めるわけで
作ればいい、ご飯があればいい、というわけでもないのはわかりきっていること。
結局は「その雰囲気でも大丈夫な人」しか来ない。
どうして居場所に「収容しようと」するのかなと
私は思っちゃいます。
この社会全体が居場所になることが
本当に必要なことであって
「居場所に行ってもらえばいい」では
解決にならないのです。
図書館が居場所の子もいれば、ファミレスが居場所の人もいるし
今あるあらゆる場所で、何かやってるような、行きたくなるような
そういうところであれば
居場所なんて作る必要なんてない。
社会のどこかには、自分が必要とされたり
自分を受け入れてくれる人たちがいるわけです。
それを見つけに行くこと、探しに行くこと
もしくは、見つけやすいところであることがあればよくて
「ここにあなたを支援してあげる人がいますよ~」なんて言われても
「支援されたいわけじゃないし」って思いますよね。
「あなたを輝かせてあげます」とか言われても怪しいだけだし。
私はとてもあまのじゃくな子供だったし
今も素直に「よきことをしている場所」を気に入ることはまずないので
ほんと、図書館とか美術館とかに入り浸れたらそのほうがずっと自分のためになったりします。
映画館や劇場も、敷居が高すぎるけど
小銭握りしめて見れるものもあっていいんじゃないかなあ。とか
思ったり思わなかったり。
学校行かずに映画ばかり見て映画で人生を学んだっていいわけです。
音楽ばっかり聴いて育ってもいいわけです。
別に「居場所」に放り込まれなくても。
そこにいるのは「助けてあげましょう」「遊んであげましょう」という大人たちで、なんだかどこか上から目線?だったり、研究のためだったりで。
放っておいてほしい人は居場所にはいかないわな。
わたしは、人類みな友達、ってぐらいの気持ちがあって
人を見て「この人はかわいそうだから助けなきゃ」と振り分けたりしないです。手助けを必要としている人が目の前にいれば、助けますし。
でも、「かわいそうな人」を決めつけたりはできない。
だからどうしても支援を仕事やボランティアでしている人たちとは
少し違うような不思議な感覚があります
障害者施設で仕事をしている時、障害者は「助ける」けれど
同僚の障害には配慮しないという職員がいたんですね。
「助ける人と助けない人をはっきりと区別するんだ」と思いました。
おかしな話です。
居場所をつくりゃいいってもんじゃないんだよな。
と、私は思います。
そこにどのような意識が働いていて、どのようなエネルギーがあって
どういう雰囲気を保とうとしている人がいるのか
それが肝心。
そういうことを考えています。