自分にできること
誰かをかわいそうだと思うこと、救ってあげたいと思うことについて。
FBに書いたことをそのままコピペしてみる。
”私がかわいそうだと思うのは、人をいじめてしまう人をみた時、コントロールしたくて必死な人をみた時。
障害があったり、助けが必要な人はかわいそうな人ではない、と認識している。
子どもに対しても、ふがいない親だったことは間違いないけど、子どもがかわいそうとか救えなかった自分を責めることや、その代替を求めることもない。
それは誰に対しても失礼なことな気がするから。
自らの特権性を自覚せずに支援者になってしまった人たちが意図せず当事者を低く見積もってしまっていることは、前の職場ではっきりとわかっていて、私は自らが生きづらさを抱えている分だけ、そういうものに敏感にならざるを得ないのだと思う。
生きづらさを抱えている人の「強さ」に気づかないのは、自分が強いと思いたいからだと私は思うのだ。
困難な人生を歩んでいる人に必要なのは援助であって救いや変化や成長ではないのでは。
そして、その人たちを変えようとするのではなく、そのままで生きていける世の中にすることなのでは。
ゲームでもそう。
誰とも戦わず、困難にも遭わず、ゴールしたって主人公のレベルは上がらない。
立ち止まったり、迷路をさ迷ったり、敵にやられたりしながら強くなるのだ。
今だけを見てかわいそうとか思うのは早すぎる。
その人は強くなる途上にいるのだ。
自分がやってて楽しいことが、意図せず誰かのためになる方がお互いによいと思うのだ。
そういう場所には変なエネルギーは乗ってこない。権力の勾配もない。
誰だって「救われるだけの存在」にはなりたくないんだよ。
そんなことをふと、思った。”
教育や福祉の仕事をしている人は
常に「未熟な人たちを相手にしている」という意識があるのではないかなあと思うことがある。
医者が患者を「治すべき人」と見ているように。
たしかに勉強量は違う。経験値も違う。
だけど、そこに上下って必要かな。
経験値で言えば、認知症であっても高齢者であれば、経験値は誰よりもあるはずだ。なのに、若い介護士が認知症の高齢者を赤ちゃんのように扱うのはなぜだろう。資格があるから?
人が困っていたら手を貸す。資格を持っていればその資格を使って。
ただそれだけのことなのに、「この人はかわいそうな人」と思う必要があるだろうか。
「今困っている人」は「永遠にかわいそうな人」ではないよ。
自分ができることはない、と思い込んだり
何かをしなければと大きなことをしようとする人がいるけれど
私は、周りの人たちが「いじわる」をやめるだけでいいのではないかと思っていて
そのために、職場の不合理なことを自分からやめる(昼休みまで支配関係があるとか)、楽しいことがあったら誰かを誘ってみる、誰にも媚びないことを実行する、ひとりで好きにするというモデルケースになる等々
「いじわるができる関係性」をできるだけ自分の周囲に作らないようにしています。
私の周りだけでもいじわるな人が減れば、いじわるな空間が減れば、それは誰かの生きやすさにつながるかもしれない。
福祉施設に勤めていた時、管理職がとても意地悪な人だったことがあって。
利用者には「いい職員」のようにふるまっている反動か、同じ職員には自分への忠誠を持っている人しか認めない。
そういうことがある。
だから、本当に自分自身から世界を変えるのであれば、自分の行動、言動を一致させていく必要があるなと思ってます。
いいものを提供している人だからって家族にDVしていないかどうかはわからない。
自分のあり方が第一歩。