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ふたつのながれ
今日の書き散らかし
いわゆる「悟り」というのだろうか
「この世界のことがわかった」という風に言ってる人たちが
あちこちにいる。
私は、オカルトもスピもそこそこ好きなので
そのような発言をする人たちの動画を見たり文章を読んだりする。
ある時から、あれ、おかしいなと思うようになった。
ある種の人たちは、必ず「豊かになろう」と言い出すのだ。
最初は、自分の経験をみなさんに広めたい、伝えたい、同じような経験をしてほしいと発信するのであるが
だんだんと雲行きが怪しくなってきて
「みんなが豊かになればいい」「豊かになるにはこうすればいい」という方向へ行くのだ。
これはなんなのだろう?
結局「お金至上主義にいきつくの?」ということになる。
一方で、そういう方向に行く人かと思ったら
全然違っていて「私の言うことを信じなくていい」「自分をとことん大切にしよう」にどんどん寄っていく人もいる。
この二極化が私はとても興味深いと思ってみている。
同じスピリチュアルな括りで発信しているにも関わらず
最初は癒し系だと思ってた人が「お金を稼ごう」系に変身していって
逆に「お金稼ぎたいんだろう」と思われるような人ほど「自分を大事にしよう」になってる。
これって、私が勝手に推測するに
「ここで自分の欲が顕れる」のではないだろうか。
癒し系だと思われていた人は、もともとが主婦で、お金を自由に使えなかった。「稼ぎたいなあ」「自分の欲しいものを自由に買いたいなあ」と思っていた。それがスピの力でできるようになった。
これだ!スピでこんなに買い物がでいるんだよ!って。
あるいは、男性にすごくモテたかった人が、スピリチュアルでパートナーに出会った。これだ!私がやったことをまねすれば、みんなも素敵な人に出会えるよ、出会えない人は間違ってるんだよ!と言い出す。
願望を叶えられたことで舞い上がってしまって、そこに執着してしまうのかもしれない。のかなあ・・・とか思ったり思わなかったり。
それに対して、願望とかなんとか言ってることは同じに聞こえるんだけど
「この人、自分自身に対してめっちゃ正直やな」と思える人がいる。
私が好きなのはそういう、自分でひたすら修行して、その修行をシェアしてくれる人なのだ。
豊かになるとか成功するとかは、おまけであって
自分自身のアップデートにしか関心がない、というのが好みなのだ。
てか、「お金持ちになるためのスピ」なんてもはや資本主義まい進じゃないですか。その、どこに、宗教性があるってんだよ(と少し怒ってる)
私はたぶん原理主義的なので
まっすぐな人が好き。筋が通っている人が好き。
苫米地さん(さんでいいのか?)は著書の中で「マインドフルネスは、アメリカの金にまみれた人たちがそのストレスを癒すために始めたものだから駄目だ」とか言ってるし
そうそう、そういうことが知りたいんだよ、と私は思う。
私たちは、様々な社会の洗脳にまみれているのだけど
それが見抜けないようではスピではないのだと私は思っているので
子どもがどうなったとか、自分がパートナーに恵まれたとか
そういうことを宣伝しているようでは
全然悟ってないじゃんって思うんですよ。
そこから抜けた世界を見てないの?と思うわけ。
・欲に向かうスピ
・欲から離れて行くスピ
この二種類がどうやらあるらしい、というのが私の考察です。
欲なんて、スピをつかわずに叶えちゃえばいいのにね。