【ウクライナ侵攻】意見表明 明日は我が身か、いつか来た道か
明日は我が身か、いつか来た道か
2022.3.21 三輪佳子
2月24日、ロシアがウクライナへの侵攻を開始してから、もうすぐ1ヶ月になろうとしています。
私は日本の一市民であり、2匹の猫たちの「猫のおかあさん」であり、障害者です。破壊される街や避難を強いられる人々の映像や報道に接していると、どうしても「明日は我が身」という感情が沸き上がります。人災であれ天災であれ、個人や地域社会を超えた大きな力の前に、人間はあまりにも無力です。
”弱み”を持つ人々に対して、災禍はより大きなダメージを及ぼすものです。天災やコロナ禍や戦乱が地域を等しく襲う時、誰もが自らや家族の生存のために困難に立ち向かわなくてはなりません。”弱み”を持つ人々は、より大きな困難に、より少ないリソースで立ち向かわなくてはなりません。ウクライナ侵攻が開始された当初から、同国内の障害者の状況は、同国・ヨーロッパ・世界の障害者団体によって懸念され、多様な支援が続けられています。しかしながら、たとえば知的障害者には、「情報が得られず状況を把握できないままパニック状態で市街地にいるところを、ロシア兵士によって不審者として射殺される」といったリスクが想定されます。支援につながって避難したり安全を確保できたりした障害者は、おそらくウクライナ国内の障害者の一部にとどまると予想されます。それどころか、実態が把握されないまま「おそらく亡くなったのであろう」と推定されることになる障害者が、数千人から数万人以上に達する可能性もありそうです。ウクライナ全土と国外避難者に対する人道危機は、障害者に対しては「超・人道危機」となりうるのです。悲しいことですが、アフガニスタンでもシリアでもスーダンでも繰り返されてきていることです。また繰り返されても不自然ではありません。
同時に、私は取材と報道を業とする者であり、大学院博士課程で博士論文を執筆中の研究者の卵でもあります。現在の日本では、生命や身体を犠牲にしなくても「私は、長いものに巻かれません」という言挙げを行うことが可能です。日本学術会議の任命拒否事件に見るとおり、学術研究はさまざまな危機にさらされていますけれども、まだ自由と権利が残っています。
ウクライナ国内では、ウクライナや各国のジャーナリストが危険の中で取材活動を続けており、命を失った人々もいます。ロシアの国営放送局には、生放送中に「戦争反対、プロパガンダに騙されるな」というビラを掲げて声を上げた勇気ある女性職員がいます。ロシアの科学者や科学ジャーナリストたちは、侵攻が開始されて間もない時期に、自国のプーチン大統領が開始したウクライナへの侵攻を憂慮する声明を発しました。一つ一つが、想像も及ばないほどの勇気と覚悟を必要とする行為です。命を失った方々の自宅では家族が悲しみ、事情を理解できないペットが再会を待ちわびているのかもしれません。ロシア政府に明確な「No」を示した方々は、巻き添えとなる血縁者や友人知人たちの近未来を想像しつつも「No」を示すことに踏み切って逮捕されたり、大切な人々が苦しめられるという予想が的中して申し訳なさや怒りの入り混じった思いで過ごしたりしているのかもしれません。あるいは、自分の所属する組織や部下や若い学生たちを業務や学問ごと守れなくなくなる可能性を心にいつも抱えつつ、笑顔を無理に作っているのかもしれません。
いざ、日本で同じような事態が発生した時、私はロシアの勇気ある同業者たちのような行動に踏み出せるでしょうか? 正直なところ、「できる」とは思えません。守りたいものが多すぎます。でも「守りたい」「失いたくない」という思い、守りたい人々や失いたくない物事は、その勇気ある人々にもあるはずです。私にも出来るのか。その場面になってみれば、私はやっぱり何もできずにオロオロしているだけなのか。それとも、自分と猫たちを守れれば「それで良し」と満足するしかない状況に置かれてしまうのか。その時になってみないとわかりません。
ともあれ、平穏な日本で平穏な今日を送ることのできている巡り合わせに感謝し、第二次世界大戦へと向かう日本の中で勇気をもってペンをふるい続けた桐生悠々や菊竹六鼓、そして福田善之の戯曲『長い墓標の列』とそのモデルとなった河合栄治郎事件を、ときおり静かに思い返しています。
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