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懐かしの銀幕スター 「 スティーブ・マックィーン」

1930年 スティーブ・マックイーンは
曲芸飛行のスタント・パイロットだった父と
母との間に生まれたが

母はアルコール依存症で
彼が生後6か月の時に両親は離婚、 父と別れた。

子育ての出来ない母は
自分の両親に マックイーンを預けたが
間もなくアメリカは 世界恐慌に陥り
祖父母はマックイーンを連れて
祖母の兄が営む 農場に身を寄せた。

この祖母の兄・クロードは とてもマックイーンを愛し
マックイーンも 後に
「彼は非常に良い男で 自分も彼から多くのことを学んだ」と語っている。

それは マックイーンにとって
唯一の幸せな子供時代だったと言える。

8歳になったとき
再婚した実母に 連れ戻されることになったのだ。

だが 新しい父親から
毎日のように 暴力を受けたマックイーンは
9歳で家出し ストリートギャングの仲間に入った。

14歳の頃には 手のつけられぬ不良少年となり
4度の逮捕、感化院入りを 繰り返しながら
売春宿のタオルボーイ、石油の井戸掘りなどをし

やがて1947年、17歳で海兵隊に入隊。

ここでも彼は 反抗的な態度をとり続け
あるとき 41日間の営倉入りという 厳罰を受けたが
この経験が マックイーンを変え
以後、隊の規律を 真面目に受け入れるようになった。

そして北極海での演習中に
仲間の海兵隊員5名の命を救った。
タンクの中にいた5名を
流水がタンクを突き破る直前に 助け出したのだ。

マックイーンは その功績により
トルーマン大統領のヨットの警備に配属され
1950年、名誉除隊となった。

その後、娑婆に戻ったマックイーンは
トラック運転手、配達人、ボールペンのセールスマン・・
10種類以上の職業を転々としたが

その中で出逢った 一人の人物が 彼に影響を与えた。
演劇に興味を持つようになったのである。

マックイーンは演技を学ぶべく
難関のアクターズ・スタジオを受験
2000人中、5人の内の一人として選ばれた。

この後は テレビでの端役出演が続く日々だったが
1956年、26歳で遂に
ロバート・ワイズ監督 ポール・ニューマン主演
『傷だらけの栄光』で 映画デビューした。

ポール・ニューマンの
チンピラ仲間のひとりで (地で出来た)
日給17ドル、クレジット無しの エキストラ扱いだった。

この18年後、マックイーンは
『タワーリング・インフェルノ』で
ポール・ニューマンと W主演で顔を合わせることになる。

マックイーンの 最初のブレイクはテレビ映画だった。
『傷だらけの栄光』から2年後
CBSのウェスタン・シリーズ『拳銃無宿』である。

マックイーンは 孤独なガンマン
ジョシュ・ランダル役で 人気爆発!
このシリーズは CBSのドル箱番組となった。

そして このシリーズを見たフランク・シナトラに
大いに気に入られ 映画『戦雲』に
キャスト序列4番目という 主要な役を与えられた。

その後は
『戦雲』の監督だった ジョン・スタージェスの許で
『七人の侍』のアメリカ版『荒野の七人』で
主演のユル・ブリンナーに次ぐ大役で出演。

「テレビが生んだ最大の映画スター」と騒がれた。

以後、『大脱走』『砲艦サンパブロ』『華麗なる賭け』
『ブリット』『パピヨン』などなど・・・

貧困と暴力の中で育った 札つき少年が
ハリウッド・ナンバーワンの 稼ぎ頭となった。

あまりの売れっ子ぶりに
スケジュールが合わず 逃した役も多かったという。
『明日に向かって撃て』『地獄の黙示録』『フレンチ・コネクション』・・

その他
スピルバーグ監督は『未知との遭遇』に
ウィリアム・フリードキン監督は
『恐怖の報酬』リメイク版に
マックイーンを切望したが どちらも彼は辞退している。 

逆にマックイーン自身は
『ランボー』主演に興味を示したが
年齢を理由に拒否されたという。

1980年11月
マックイーンは 転移性腫瘍を除去する手術後に亡くなった。
50歳だった。

何と言っても 『大脱走』のヒルツですわね。

ドイツ軍が
ヒルツ役のマックイーンを 追うシーンの一部は
ドイツのスタントマンより
バイクの上手いマックイーンが ドイツ軍の兵隊に扮して運転し
自分が自分自身を追うという 珍しいシーンになっている。   

撮影現場で

左より ジェームス・コバーン ジェームス・ガーナー マックイーン

世界一バイクの似合う男と 言われました。

おしまい






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