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懐かしの銀幕スター 「イングリット・バーグマン」

イングリット・バーグマンは
1915年 スウェーデンに生まれ
3歳の時に母を 13歳の時に父を失い
その後は親戚に育てられた。

幼い頃から
女優の道に進むことを夢見ていたバーグマンは
17歳のとき
母国の大スター、グレタ・ガルボも学んだ
王立演劇アカデミーのオーディションを受ける。

このときのエピソードで バーグマンが若い時から
いかに女優としての才能が 秀でていたかが判るのだが

「オーディションが終わって ステージを去るときの私は
 自分の葬式に参列しているような心境でした」

自分の実技に落胆するバーグマンのもとに
審査員の一人が近づいて こう言った。

「私たちは貴女に感銘をうけました。貴女は素晴らしい。
 これ以上、何十人ものオーディションを実施するのは時間の無駄です。
 貴女には天賦の才があります。将来素晴らしい女優になるでしょう」

と、実際オーディションは ここで打ち切りとなった。

こうして合格したバーグマンは 国からの奨学金を受け
王立演劇学校へ入学したのだが
その最初の夏休みに ある映画スタジオからの仕事の依頼が来た。

この演劇学校では 3年間演技を学んでからでないと
外部の作品に出演してはならないという規則があったが
バーグマンはその仕事を受け
そして一年で この演劇学校を退学した。

退学後のバーグマンは 何本かの映画に出演し
そして21歳で歯科医師と結婚、娘を出産したが

24歳のとき バーグマンのスウェーデンでの映画を観た
米の大物プロデューサー  デヴィット・O・セルズニックに
ハリウッドへ招かれる。

セルズニックは
「今迄でもっとも完成された 誠実な女優」と評し
欠点をあげれば 背が高すぎることだけ (175㎝)だった。

ハリウッドでの第一作目は『別離』であった。
バーグマンは その際立った美貌と知性で 一躍、脚光を浴び
立て続けに映画や舞台に出演
夫と娘をアメリカに呼び寄せた。

そして、ここからが凄い。

1942年・27歳『カサブランカ』ハンフリー・ボガート
       ↓    

1943年・28歳『誰がために鐘は鳴る』ゲーリー・クーパー
       ↓

1944・29歳『ガス燈』シャルル・ボワイエ アカデミー主演女優賞
       ↓

1945・30歳『白い恐怖』グレゴリー・ペック
       ↓

1946・31歳『汚名』ケーリー・グラント
       ↓

この時期、ドル箱スター ベストテン2位に入り
名実ともにハリウッドの トップ女優の一人となった。

しかしこの頃、バーグマンは
イタリア人映画監督 ロベルト・ロッセリーニの
『無防備都市』『戦火のかなた』に 深い感銘を受け

ロッセリーニに 想いのたけを綴った手紙を送り
1949年・34歳のバーグマンは ローマに飛んだ。

そしてロッセリーニの監督で
『ストロンボリ』を撮影中 ふたりは恋に落ち
共に既婚者同士の不倫は 一大スキャンダルとなり
バーグマンの知性と気品を愛した 米のファンは許さず

バーグマンはハリウッドを捨て
そして
若き日から 女優の夢を支えてくれた
歯医者さんの夫と 一人娘も捨て
ロッセリーニのもとへ走った。

ロッセリーニ監督と

その後、3人の子供を授かったが
けれど、これほどの恋もやがて破局、7年後に離婚
のち、演劇プロデューサーと結婚、離婚。

バーグマンは 恋多き女性だったのでしょう。
ロッセリーニの前には
報道写真家のロバート・キャパとも恋愛関係だったとか。

やがて、アメリカを追放されてから7年後
『追想』でハリウッドに復帰
2度目のアカデミー主演女優賞を受賞

ロッセリーニとのスキャンダル以来
はじめてハリウッドの 大衆の前に姿を見せ
ステージに上がったバーグマンは
観客から熱いスタンディング・オヴェーションで迎えられた。

女優として
長年にわたり、乳がんと闘いながら切除手術も公表し
病気と老いから来る 
容貌の衰えをそのまま受け入れ 現役を続け

バーグマンは
イングマール・ベルイマン監督『秋のソナタ』を最後に
1982年・67歳の誕生日に 亡くなりました。

「私が後悔することは しなかったことであり 出来なかったことではない」  
                     イングリット・バーグマン


おしまい


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