人の断捨離は痛い
2024年明けてからもう既に半月。
年明けは毎年上っ面の社交辞令の年賀状に悩まされるんだけど今年は何通も今回限りで年賀状出すのやめます宣言の年賀状をいただいた。
所謂年賀状じまいってやつですか?
それはそれでなんだか断捨離された側なので淋しさはありますが、そのほうが潔いのかなとも思ったり。
私は自分からやめますって宣言できないからもう何年も前から年賀状は返事しか書いてない。
だから自分と同じ気持ちだった人が離れていったという感じなのかなぁ。それも淋しいけど仕方ない。
本当に交流したい人たちだけが残ったという感じでもなく、リアルに交流している人たちとは常にSNSで繋がっているからその流れで年始の挨拶もほとんどSNSでしているから葉書で社交辞令する必要がないのだ。
人間関係は難しいね。
学校とか会社とかサークルとか定期的に通うところがあると約束しなくても会えるけど卒業したり辞めたりしたらもう会わない。会いたくない人には会わなくて済む。でも会いたいと思う人には約束をしないと会えなくなる。
だから私にとって年賀状は年に1度そういう人たちへ近況報告するための手段だったからひとりひとりに対話するように違うメッセージを書いて送っていた。
でもいただく年賀状は写真入りだったり文章の印刷された挨拶文だけでひと言「元気?」みたいなのだけ。 それもたぶん一斉メールみたいに同じ文章を何人もの人に送ってる感じ。
それでも私はいただいた年賀状に対しては心を込めて近況報告を書き続けていました。
でも今回の年賀状じまいの宣言になんだか自分がやってきたことがものすごく無駄だったことに思えてしまって、文章を何度重ねても伝わらないことあるのに社交辞令の年賀状なんてそもそもなんの愛も感じないし、何も伝わってこないのに私はいったい何をしていたんだろうって。
こんなふうに印刷文だけでバッサリ切られるなんて友だちですらなかったのかも。何処にでもあるようなグルーの中のひとりで、1対1でこの先また会いたいか?って考えた時、答えが出た。
きっとこの先もう会うことないだろうって。
本当に今年のお正月は公私ともにマジで痛みを伴う断捨離の時間でした。
会ってみないとその人が持つ本質とか独特の雰囲気はわからない。
だからいつも私は会いたいって思うんだけどみんなそんな人ばかりじゃないよね。
会いたい気持ちなんてほど遠く存在すら忘れててそんな人いたよなくらいでなんとなくズルズル続いてるそんな関係ですら年賀状やり取りしてたら友だちなんだろうか。
そんなこんなでお正月はいつも友だちって何なんだろうって憂鬱になっちゃうんだ。
友だちって一派一絡げ過ぎる。
私にとって大切な人かどうでもいい人か二度と会いたくない人か
その三択しかない
ということに気づいた2024年のお正月でした。
もっと前から気づいていたけど手放せなかったんだな。でももう大丈夫。
こうして離れていくんだってこと。
根底に愛があるかどうか
それだけ
私にとっての愛は
敬意
感謝
思いやり
respectation
appreciation
understandings
もしかしたらもっとあるのかも
で、
書いている今もうひとつ見つけたのが
誠意
sincerity (スペル合ってるかな?)
これらが根底にあれば老若男女問わず愛しい人と呼べる。そんな人たちと私は繋がっていたいんだ。
もっともっといろいろな愛のカタチを探し続けたいと思います。