「できるけど疲れる」という言葉に出会って
先日、ツイッターで目にしたコメント。
今まで言葉にできないモヤモヤから視界が開けたような内容でした。
https://twitter.com/tep_kikuchi/status/1564931206910984192?t=aVBZJDvaTQozTfNVtYSmxQ&s=19
その言葉を目にしたとき…
次男に当てははまるケースだと思いました。
問題なくできることも多々ある中で、頑張ってもできないということも彼の中ではあったと思います。
例えば、板書を時間内に終えることは難しかったと彼のノートを見れば想像できました。
でも、学校では「頑張れば板書もできている」という視点で解釈しているので、「頑張れ!」と応援されていたのだと思います。
学校から帰ってきた次男はいつも疲れていました。
小学校高学年になっても20時までには寝てしまう状態が続き、彼の体力消耗の早さをわたしは気にしていたものの大きくなれば体力もつくのかなと思っていた節があったからなのですが、その一方で学校に行くことが疲れることなんだろうなと思っていたのも事実。
学校の先生のように「できていることもあるから大丈夫。本人の頑張り次第」という見解ではないにしても、彼のペースでできるようになってきたこともあるから様子を見ようと見守るスタンスでいたわたしにとって、学校に行くことを止めた次男の意思を聞いたときに、母親である私がもう少し強気に出ればよかったと後悔しました。
うまく説明できない境界線の部分
小学校に入ってからは事あるたびに担任の先生と次男のことについて話はしていたのですが、いまいち伝わっている様子がないことを感じていました。特別支援(授業中にちょっとした支援)をお願いしていたのですが、担任の先生の判断でしょうか、取り入れられることはありませんでした。うまく説明できないことがもどかしかったのですが、菊池先生のコメントを見て腑に落ちたのです。
「できるけど疲れる」
これだと思いました。
この説明ができれば良かったんだ…時間を巻き戻すことができるなら「できるけど疲れる」ということを伝えたい。。。
「できるけど疲れる」から思い出したこと
「できるけど疲れる」ということは、わたし自身にも当てはまることだ…と思いました。
わたしは、小学校3年生の時にろう学校から地域の小学校に転校しました。当時、ろう学校の同級生の中では読唇術がうまくできていたので、地域の学校でもなんとかやっていけるだろうという勧めもあり、転校を決意したのですが、自分に合わせてゆっくり話してくれるわけではない小学校生活は本当に大変でした。(注:わたしがいることで、意識してゆっくり話してくださっていましたが…)
読唇術で先生が話す内容をつかんでいったり、お友だちとおしゃべりをしたりする生活は、ろう学校にいるときよりも神経と360度アンテナを張りつめていて体力を奪うものでした。少しずつその生活にも慣れて、その生活が当たり前となりつつあり、バタンキューということは減ってきたのですが、授業についていかないと!と毎日が必死だったので感覚がマヒしていたように思います。
「読唇術はできる」「でも疲れるものだった」
今振り返ると、そう思います。
しっくりくる言葉に出会って
「できるよね?」という視点でつい見てしまいがちですが、
・できちゃうんだけど、本当にそれは等身大の自分なのか?
・自分が望んで背伸びしているのか?
・無理していないか?
そういった観点に立って、「快適に過ごせる空間」を環境設定すれば、次男ももしかしたらわたしも「快適に学習に集中できる時間」がもっと持てたのかもしれません。
次回は、最近わたしが言われた言葉について考えたことを書いていきたいと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?