ぼくを探しに。
もう30年近く前
20代の頃に友人から貰ったこの本の意味を
随分後になった初めて
あぁ、、そういう事だったのかと理解できた。
結末がどうしてそうなるのか
若かりし頃にはわからなくて、、
足りない物を補っていくのが
人間同士なんじゃないの?って
意気投合して
自分にぴったりのカケラと
埋め合わせるのが
自然の在り方なんじゃないの?って...
それなのに、なんでだろう、、って
ずっと不思議だった
私達の人生は
自分の中に不足している何かを探す旅
今自分にないものが一番欲しいもの
今ないものがあったら
幸せになれると思い込み
それを求めて
遊んでいるのがこの人生だけど
遊んでるって最初は
それがどういう事か
なかなかわからないので
あれもこれも試してみる
あれもこれも所有してみる
あれやこれやってみる
そのうち
何をやったら良いかも
わからなくなる
・ ・
彷徨いつづけても
探しているものは一向にみつからなくて
見つけている間の
色んな心を
誰かに聞いて欲しくて
自分の感情のドラマに
付き合ってくれる相手を
何度でも探して
やり取りしていくのかもしれない
でも、
自分自身を本当に見つめていくと
このぽっかりと空いた穴を塞ぐのは、
モノや人ではなく
自分自身じゃないと
キリがない、
という所に行き着きます
好きなことをすること
例えば友達とご飯に行くこと
旅行に行くこと
欲しいものが手に入ったら
また次に欲しいものが
手に入れたいと思うように
次から次と外側から欲しいもの
手に入れるけれども
外側から埋めている限り
一向に埋まらないことも
気がついてくるのです
そして欠乏感を埋めてくれる誰かが
逆にずっといることが
わずらわしくなってきたりもするのです
出来事の中に
その意識の中に
他の誰かが居座っているとき
実は相手を通して
自分の課題を知る事ができること
例えばそれは
『どうせわたしなんか、、』という
『無価値観』だったり
『孤独感』だったり
『欠乏感』『罪悪感』
それらの課題にまつわる
感情を開放したがっている
根底にいる膝を抱えて泣いている
心に自分の存在を知る
きっかけになります
これまで他者に埋めてもらっていた
外側からのアプローチを
今度は
自分で自分にしてあげると
言う行為は
端から見たら
一人ぼっち
孤独のような状態に
なるけれど
そうじゃない、、
『自分』という字の如く
自らを分けた
こころの中にいる
本音という
もう1人のわたしがいることに
気づけますか?
過去を思い返しているその
『今の時間』は
過去の出来事に同化して
ひとり
動けなくなる事じゃない
湧いてくる素直な気持ちを
徹底的に、味わせてあげる
その「自分との関係性」の中で
自分が自分に寄り添う
この時点で2人いること。
孤独は
だったひとりという意味ではなくて
本音という
もう一人の大切な自分がいた事へ
気づいていく時間に
なるのです
そういった流れを通して
自分の弱さを見つめた時
感じる事を疎かにしてきてしまった
自分のこころと出会うことで
未消化にしてきてしまった
感情に触れる事で
本当に『満たす』という事が
出来るようになります。
・ ・ ・
実は
痛みを含めて学べるその相手からは
自分自身に計り知れない
気付きをもたせてくれるんですよ
本質への扉を開けるきっかけになった
その役を演じてくれた
相手へは
実は
感謝以外の
何物でもない奇跡だった事にも
気づくことになるでしょう
孤独の中での
最高の学び相手は
こころの中にいる
私なのだと
『自分』という字の如く
自らを分けた、
こころの中にいるもう1人の
わたしと共に
あなたの心を
今日も満たしていくのは、
あなた自身なのです
この本の後編はこちら♪次回に続く、、
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