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メモ:ジャニーズ問題に違和感を覚える教授に違和感を覚える

 現代ビジネスに掲載された長谷正人さんの「ジャニーズ性加害問題に覚える違和感、そもそも日本のアイドルはいつから「性的に消費」されはじめたのか。」という記事を読み、かなり違和感があったので、感想を書いておく。

◆主流派=性的欲望、非主流派=同性への憧憬

 この記事は論旨が非常に不明瞭なので、最初に話を整理しておく。

 まず、著者曰く、この記事は「オルタナティヴなアイドル文化の可能性」を指摘することで、「現在の疑似恋愛的な文化を自明視したアイドル言説のこわばった閉域を、少しでも相対化させたい」という狙いで書かれたものだという。

 そこでは、「熟練の技芸よりも若々しい容姿の魅惑を性的に楽しむ」日本のアイドル文化の中には、疑似恋愛的な文化に染まった「主流派のアイドル文化」と、アイドルを疑似恋愛の対象としない「オルタナティヴなアイドル文化」があるとされる。

 後者の文化を体現するのは、SMAPや嵐の元メンバーたち、または工藤静香・安室奈美恵・浜崎あゆみといった面々だ。彼らはある時点で(もしくは最初から)、疑似恋愛の対象ではなく「人生のパートナー」とでも呼ぶべき存在となった。性的欲望ではなく、同性からの憧憬によって駆動されるところが「オルタナティヴ」というわけだ。

◆主流派=中流階級、非主流派=下層階級

 著者はさらに時代を遡って、1970年代以前、つまりジャニーズ以前のアイドル文化(スター文化?)にはこの「オルタナティヴ」な要素が色濃かったことを、史料をもとに示していく。たとえば、男装が女性ファンに受けていた美空ひばりは「異性愛的欲望を超えた」「両性具有的な妖しい」存在だったという。

 だが、このようにオルタナティブだったはずのアイドル文化は、70年代半ばに転換点を迎える。ヤクザや右翼と密接な関係をもっていた美空ひばりから、オーディション番組で健全に発掘された山口百恵への変化がその象徴とされる。社会がもとめるモラルの基準が変わり、不健全な芸能文化が排斥されるようになったのだ。

 当時の社会では同性愛的な文化はインモラルなものだったので、芸能界が健全化されると、同性にあこがれる文化もまた衰退する。著者はこれを「中産階級的な(異性愛主義的な)モラルによる「不健全」な芸能文化の排斥」と表現する。

 つまりここでは、現在主流派の疑似恋愛的なアイドル文化が「中産階級の健全で異性愛的な文化がもとになったもの」とされ、逆に、オルタナティブなアイドル文化は、「下層階級の不健全で同性愛的な文化を引き継ぐもの」だとされているわけだ。

◆主流派=性加害的、非主流派=性加害的でない

 著者はさらに、この主流派/非主流派の区分に、ジャニー喜多川の性加害事件を結びつける。具体的には、主流派の文化の「ファンたちの視線が、どこかで彼が美少年に向けていた「性的欲望」の視線(同時に目利きとしての視線)と重なってしまう」ことを指摘し、それが今回の事件に世間が感じている居心地の悪さにつながっているとする。

 これは言いかえれば、主流派の文化は性加害のそれに視点が近くて居心地が悪く、オルタナティブな文化の方は性加害とは無縁なので居心地が良い、ということを言っている。そして、最後に次のような文章を置いて本文は終わる。

 つまり私たちがいま自明視している「疑似恋愛」としてのアイドル文化は、日本の芸能文化にずっと存在してきた、同性を憧憬するアイドル文化を排斥し、周縁化することのなかで生まれてきたのである。/いまジャニーズ問題を通してアイドル文化について考え直す機会が私たちに訪れているのであれば、私はより広い射程で、日本のアイドル文化について考え直す機会にしてほしいと思う。

出典:https://gendai.media/articles/-/118596
以下、引用文の「/」は中略を示す。

 著者は読者に、この記事を読んで「日本のアイドル文化について考え直」してほしいという。だが、具体的にどう考え直してほしいのかは書かれていない。そのことが記事の不明瞭さにつながっているわけだが、ここまでの整理を踏まえれば、もう話は明らかだろう。

 ここには、坂道グループやジャニーズに代表されるアイドル文化の主流派は性加害的で中産階級的で同性愛を排除する「悪しき文化」なので、それに対する支持は考え直すべきであり、逆に庶民的で同性愛にも親和的な非主流派は「正しい文化」なので尊重すべき、という思想が〝半分だけ〟提示されているのだ。

◆正しい文化=ズルいリベラリズム

 著者はなぜ、ここまで明瞭に優劣のある区分を示しておいて、文化の良し悪しには言及しないのか。それは、文化に優劣をつけることが、ここでいう「正しい文化」に反しているからだ。

 ここで正しいとされている文化は、一般的には「リベラリズム」と呼ばれるモノと考えていい。この言葉には多様な意味があるが、ここでは「道徳的な中立性を尊ぶ道徳的思想」という意味で使う。この思想の立場に立つと、ステレオタイプな(=道徳的に正しいとされる)振る舞いをする主流派のアイドルは道徳的に劣っていて、ステレオタイプを裏切る非主流派のアイドルは道徳的に優れている(というかもう〝非主流派〟という言葉自体が褒め言葉になる)わけだが、しかし、その優劣を口に出してしまうと、それは他人への圧力になってしまう。リベラリズムは暗黙のうちに了解される道徳なのだ。

 なので、リベラリズムの立場に立つ人は、ある文化について言及するとき、「ありがちな」「保守的である」に類する言葉を悪口に、「予想を裏切る」「革新的である」に類する言葉を褒め言葉に使う。決して「この文化は非道徳的だ」とは言わず、道徳的に優位に立つ。直に罵倒したりはしないが、わかる人にはわかる悪口を言う。この記事の不明瞭さには、そんなリベラリズムの「ズルさ」が反映されている。

◆どちらが本当にオルタナティブなのか?

 だが、私はそんなリベラルの「ズルさ」を告発したくてこの文章を書いているわけではない。「ズルさ」はリベラルなりに道徳的であろうとした結果不可抗力で生まれたのであり、その卑怯さを自覚さえしていれば非難される筋合いはないはずだ。

 私がこの記事に対してもつ違和感は、それがリベラルだからではなく、「リベラル風なのにいまいちリベラルではない」ことに由来している。より具体的に言うと、時代感覚が30年から40年ほどズレている気がするのだ。

 どういうことか。第一に、擬似恋愛の対象としてのアイドルを「世間の主流派」とすることに疑問がある。このスタイルのアイドルの典型として考えられているのは、1980年前後に活躍した清楚な(松田聖子に代表される)歌謡アイドルたちと、2010年前後に活躍したAKB48だろう。しかし、この二つの時代間には、男性ウケを意識したアイドルが低迷して、同性に支持されるシンガーソングライターや女優が持て囃された、いわゆる「アイドル冬の時代」があるはずだ。

「アイドル冬の時代」の到来は、80年代後半、男女雇用機会均等法が制定され、女性の社会進出が一気に進んだ時期と重なる。それまで性的分業のもとに分かたれていた男女が、一緒くたに「人間」として扱われるようになると、昔のアイドルのような(処女であることが前提とされるような)清楚なイメージは通用しなくなる。そこではむしろ、自立した女性が新時代の旗手として世間から歓迎される。今日もリスペクトされる小泉今日子や安室奈美恵の人気はその流れを汲んだものだろう。

 この世間的な風潮は、保守的とされがちなモーニング娘。やAKB48のようなグループアイドルにも影響している。二つのグループに共通するのは、オーディションや総選挙といった競争(残酷ショー)がコンテンツとして明確に提示されていたことだ。そして、当時のファンの多くは、半分は美少女に〝萌える〟保守的な消費をしながら、もう半分は競争を政治やスポーツに見立てて楽しむ、つまり同性に憧れるような視線を向けるという、実に中途半端な消費をしていた。

 たとえば、かつてAKB48の熱烈なファンとして知られた漫画家の小林よしのりは「わしがAKBに熱狂した理由」と題した文章で、AKB48の人気低落のきっかけを「恋愛禁止ルール」の撤廃に見る。

 なぜAKB48にあれほど嵌ったわしが、今は興味を失っているのか? 簡単なことで、AKB48 の快進撃は社会現象だったからである。/恋愛禁止だったからこそ、それまで禁を破ったメンバーが残酷にも辞めさせられていたのだし、その残酷性が面白いという面もあったし、指原は禁を破っても辞めさせられることなく、HKTに移動させられ、以降のサクセスストーリーが作られた。/
 恋愛禁止ルールがいつの間にか消滅したのは、「人権」というイデオロギーが、「少女の恋愛を禁じてはならない」というところまで、バブル化していたからである。/乃木坂や欅坂になると、もう社会性が全然ない。可愛い女子に夢中になるかどうかの「私」的な話でしかない。/もうアイドルグループは社会現象ではなくなった。社会の人々の目を剥き、顰蹙を買う存在ではなくなった。安心・安全の社会秩序の中に回収されてしまったのだ。

https://yoshinori-kobayashi.com/17274/


 小林は、初期のAKB48の魅力を、それが「社会現象」だったことに見る。ここで「社会現象」であるということは、それが社会から異質な存在であり、にもかかわらず表舞台に立つことで世間を困惑させていることを意味する。小林にとってAKB48は、2000年前後のセカイ系アニメや、1980年前後のパンク/ニューウェーブ的なバンドブームと同列の存在だったわけだ。ところが「恋愛禁止ルール」がなし崩し的に消滅したことで、社会からの異質性とともにその魅力は失われてしまったという。

 注意したいのは、小林のこの見解は、先に取り上げた長谷のそれとは正反対の世界観に立脚しているということだ。社会の主流派は「自立した女性」を尊ぶ(右翼風に言えば人権派の)リベラリズムであり、だからこそ、「萌え=性的消費」の対象となる清楚系アイドルは社会を困惑させる。つまりAKB48においては、「自立した個人」を見せる競争的な部分の方が世間に迎合していて、疑似恋愛的な恋愛禁止ルールこそがステレオタイプに対する〝裏切り〟や〝革新〟になっていたと分析しているのだ。

 2010年当時小学生だった私としては、長谷よりも小林の認識の方が肌感覚に合う。小林が時代の変化に敏感であったのに対して、長谷の認識は80年代初頭の、自由恋愛や同性愛が「尖り」として扱われていた忌野清志郎や坂本龍一の時代で止まっているように感じる。

◆文化の逆転、少数派を装う多数派

 長谷の認識と小林の認識は、互いに時代がズレているだけでどちらも正しい。たしかに、インモラルで猥雑な戦後の大衆文化は70年代までに衰退し、代わって健全で疑似恋愛的な中産階級文化が台頭した。しかし、実はその中産階級文化も90年代までに変質し、リベラリズムを内面化して自立した個人としての女性を称揚するようになった。AKB48を中心としたアイドルブームは、そんなリベラル化した中産階級文化へのカウンターとしてあった。

 つまり、現代文化を支配するのは、80年代の状況を見事に反転した構図だ。中産階級の健全な文化は、疑似恋愛的消費、性的消費を不健全なものとして排除し、K-POP=グローバリズムの影響を受けた清潔で同性からも支持されるアイドルグループ(XGやBTSやBE:FIRST)を歓迎する。対して、そんな価値観に対応できない下層階級(今や容姿は育ちに連動するわけだから、いわゆる〝キモオタ〟はこちらに属するはずだ)を中心とした不健全でガラパゴスな文化では、疑似恋愛を中心とした文化がいまだに残存している。
 
 この背景を認識した上で見ると、記事はとてもグロテスクなものに映ってしまう。映像文化を研究する大学教員(=中産階級)である長谷は、過去に排斥された大衆文化と自分の属する文化を、ジャニーズ・AKB的な現代大衆文化とジャニー喜多川の性加害をそれぞれ結びつけて、自分がさも道徳的な少数派の側に立っているかのようにふるまう。だがそれは、少数派を装いつつ、多数派の立場から下層階級の文化を蔑視し、さらには無関係な性加害事件をそのダシに使う恥知らずな行為でしかない。なので、やめてください。

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