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偶然と触れ合い──山田尚子『きみの色』感想

 京成ローザ10で山田尚子『きみの色』を観たので、短めの感想を書いておく。ネタバレ(というほど展開がある映画でもないが)注意。

◆「触れ合う」映画

 物語は驚くほど素朴で、3人の平凡な高校生がバンドを組んで文化祭で演奏する、ただそれだけの話だ。金・暴力・セックスの話どころか、成長や葛藤すら派手には描かれない。長崎のミッションスクール、古書店、離島の廃教会といった社会から隔絶された場所を舞台に、穏やかにストーリーが進行していく。

 3人はそれぞれ、親から与えられた役割(医者、模範生徒、バレリーナ)にうまく適合できなかったと感じていて、音楽にそこからの解放を求めている節がある。だが、各親子間の溝は「断絶」というほどには強調されず、終盤では親との対話がほとんど省略されている。つまり、この映画において、親子関係や役割に対する葛藤はドラマを成立させるための脇道でしかない。

 では、この物語として映えそうな要素が省かれた部分には、代わりに何が入っているのか。そこには、ドッジボールの顔面ヒット、ミッションスクールの教師やルームメイトとの会話、膝枕、同衾、合宿、ハグ、演奏の共有など──まとめると、身体・モノ・光・色を通した「触れ合い」が詰め込まれている。

 この「触れ合い」には一貫した特徴がある。身体や音楽、ボールなどを通したこれらの接触には、何ひとつ必然性がない。主人公であるトツ子にドッジボールが当たった理由は特にないし、伏線にもならない。膝枕や同衾は愛情表現や性的交流としてではなく、むしろ関係が深まる過程で自動的にイベントとして起こる。

 つまり、触れ合いによって何かを表現したり、何らかの感情が高まって触れ合いが発生したりするのではなく、ただ純粋な「触れ合い」が存在している。触れ合いを起点に何かが起きることはあるが、それはあくまでもスタート地点であって、何かのゴールではない。触れ合いが因果に先立つ。触れ合いの多さ自体は山田監督作品に共通する特徴だが、ここまで純粋なものとして描かれるのは珍しい。

◆必然ではない世界

 偶然の触れ合いは3人を結びつけ、その結びつきが3人に「変える勇気」と「受け入れる勇気」を与える。この勇気を元にコンプレックスと向かい合い、文化祭でライブを成功させ、トツ子が「自分の色」を認識できるようになって、映画は終わる。

「自分の色」を認識できるようになったというのは、そのままトツ子によるアイデンティティの確立を意味しているわけだが、より重要なのは、この確立は偶然成功した、ということである。

 粗雑な話になるが、一般的な自己実現のドラマ──とくに男性が主人公のそれ──では、主人公の主体性や、その裏返しとしての不能性が強調されることが多い。なんらかの壁にぶち当たり、その壁を乗り越えるためになんらかの決断をして、成果を掴む。もしくは掴めない。いずれにせよ、前者は正しく努力した「勝者」として、後者は過ちを犯した「敗者」としてアイデンティティを得る。

 これに対して、本作では「主体性」があまり強調されない。バンドが誕生するきっかけは主人公のとっさのアドリブであって、何らかの葛藤や、その末の決断があったわけではない。また、各々が目を逸らしていた不都合な現実に向かい合う時も、それは「触れ合い」から湧き出た勇気が導く自然な流れとして描かれ、個人の決断や葛藤の描写は可能な限り回避される。

 努力の結果の成功と、過ちの結果の失敗。そんな二元論の世界から離れたところで、偶然の触れ合いが人を救う。校則破りのパーティーは、過ちであると同時に正しい努力でもある。そんな優しい世界の美しさを素直に受け止められるかどうか、「オレとは関係ない世界の話だなぁ」と捉えてしまうかどうかで、評価の変わってくる作品かもしれない。

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