「英語」のチカラ

英語に触れたきっかけ

子どもの頃住んでいた吉祥寺。私が住んでいた社宅の敷地の向かい側には、アメリカンハウスと呼ばれていたアールデコ調の家々が並んでいた。

アメリカ人の子ども達には人見知りなどなかったのか、私たちを誘っては良く遊んでくれた。

ブロンドヘアーの青い目の子や、クリクリの黒髪で浅黒い肌の男の子たちと一緒に缶蹴りなどをして遊んだものだ。

日本語が出来たのかは全く覚えていないが、子どもの遊びにたくさんの会話は要らなかったのかも知れない。

集合場所はいつも「ガラージ」。「ガラージ」の意味を知らなかったが、感覚的にガラージは彼らの家の車庫のところだったのだ。そうやって幾つかの英単語も覚えた。

また、時々彼らの家に呼ばれる事もあった。その当時見たこともない鮮やかな色の大きなアイスキャディーやお菓子、G.I.JOEの人形などなど。。初めて見るアメリカが経験でき、心がいつもワクワクした。

この経験がわたしを英語好きにしたきっかけである事は間違いない。

小学生5年から始まった英語レッスン

小学4年生の秋、吉祥寺から千葉へ引っ越す事になった。

環境は大きく変わった。子ども心に新天地の空気が全く違うことを感じた。

しかしわたしから英語の環境は奪われなかった。

ご近所に元JALの国際線スチュワーデスをしていた方がいらした。背が高く、美しい女性。しかも元英語教師をしていらしたと言う。

小学5年生になったわたしは、「英語を習いたい!」と母に懇願した。

元スチュワーデスの美しい先生は、わたし一人だけの為に、週に1回教えてくださる事になった。

英語のレッスンは会話ではない。1枚の紙を顔の前に持ち、アルファベットの発音のひとつひとつの練習から始まった。"D" "T" "V"の発音は紙をゆらすようにと言われた。その後は簡単な単語や短い会話を習ったと記憶している。

あの時の発音重視のレッスンを本当に有難く思っている。それは留学経験がない私の発音が良いと言ってもらえる事が多かったからだ。

2年後、スチュワーデス先生は引っ越される事になったのだが、なんとその妹さんが引き続き英語の先生をしてくださる事になった。

妹先生は、英会話ではなく英作文に力を入れられた。しかも、一切市販されていた問題集は使わず、毎回自ら問題を考え用意されていた。

元新聞社の編集者と後から聞いたが、職業柄自ら考えられる事が好きだったのかも知れない。

一般的な「塾」とは違い、先生独自のやり方はとても楽しかった。わたしを含め、友達3人から始まったその英語塾の生徒はみるみる皆成績が伸びた。

わたしが教わっていた中学の3年間は、まだ少人数のクラス。毎回お茶やクッキーまで頂いて、本当に楽しい英語塾だった。

成績も上がるから、益々英語ばかり勉強した。

わたしの中学生時代はラジオ全盛期。NHKの英語講座、小林克也さんのベストヒットUSAやAmerican Top 40など、とにかく英語かぶれの英語漬けで毎日楽しく、勉強と言うより趣味のように学んでいた。

英語の授業も復習のような感じで、中学時代の英語は簡単だとさえ感じていた。

しかもこの中学の基礎英語で培った力は凄いもので、高校でなまけてしまったものの、酷く悪い点数を取ったことはなかったように記憶している。

中学で習う基礎英語は本当に大事だったと今でも思う。

勉強から日常のコトバに

その後のわたしは、子どもの頃からの夢だった航空会社のグランドホステスになった。 そして身長が低い事で1度は諦めた客室乗務員の夢も、フライトインタープリターとして乗務する事ができた。

仕事を始めてからの英語は、学ぶものから外国人とのコミュニケーションのツールへと変化した。

コミュニケーションとしての英語を話す事は英語を難しく学ぶより、とても楽しい。

日本人は文法にこだわり、完璧な文章でないと恥ずかしいと思う人が多い。しかし英語圏でない外国人の英語は本当にブロークン英語だ。通じれば良いと言う感じ。

以前にも綴ったが、気軽に英語を話した方が話は弾む。

https://note.com/japanuk1964/n/n25b91ae5ef3e

会話はすればするほど上達すると思う。

英語が好きだった子どもは、英語を学び続け、英語関係の仕事をし、イギリス人の夫と結婚。今ではイギリスに住んでいる。

・・・なんだかそう考えると、「英語」が運んでくれた色々な縁に不思議な力を感じる。

わたしにとって「英語」とはまさに大きなチカラとなって人生を歩ませてくれたとても大事なツールである。




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