佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第2回:記憶と風景 ー北爪満喜詩集『奇妙な祝福』評
作品のなかで、父母も、祖母も亡くなっている。半分以上、追憶でできた詩集である。歌集なら帯文に「挽歌集」などと入りそうだ。
だが記憶というものはかならずしも時系列に沿っては再現されない。ちぎれ、つながり、変形する。詩歌で真実を記すとは、その歪みを歪んだまま記すことにほかならない。
バス停から薔薇に呼び戻されて
私は薔薇園に戻って歩く
母は 薔薇に 呼び戻されて
あの家にまた戻ってくれた (「幽かなものが払われて」より)
夢の中の 桑の掌は おばあちゃんの無言の言葉(「桑の葉」より)
父が 虫の卵の中に さなぎのように透けてくる
銃の尻に
たった一個透けて父が下がっている (「南・十字・星」より)
これらの記述は、ファンタジーではない。祖母は蚕を育てていたし、父は南島で従軍していた。母の魂を呼び戻した薔薇園は、作者の出身地である前橋の敷島公園かな? と具体的な想像もできる。できるけれども、非現実の感触がまといつく。
記憶とはそういうものだろう。
過去との境が がらがらと崩れ
大きな牛が歩いてくる (「12月 君子蘭、牛の庭」より)
牛舎から逃げた牛が家の玄関に鼻面を入れて蘭の花を食べてしまったという詩。人、そして家のようすが再構成される。別の詩では、無人となった家も描写される。それぞれの詩が、それぞれの風景をなす。
風景とは、生物、無生物、過去、現在、その他多くの要素によって立体化される現象の別名であると、詩は語りかけてくる。
なかった私が
あるようになって
あの家で
育ててくれた父や母が死んでしまったあとで
生まれようとして生まれた大きな赤ちゃんと
小さな赤ちゃん (「奇妙な祝福」より)
風景は詩人に、かつて「なかった私」への遡行をうながす。家の祝福により「あるようになって」、詩人は素朴に率直に、こう願う。
滴って
詩の中に 滴ってゆきたい (「ぽつんとしていた」より)
初出:「歌壇」2015年4月号
http://www.shichosha.co.jp/newrelease/item_1287.html
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