「自分が被害を受けても同じ事が言えるのか!」という不当な圧力
これは一生誰にも言うつもりはなかったのですが、昨今の「言ったもん勝ち」「被害者と名乗り出たもん勝ち」の風潮に対してどうしても我慢ならないので、自分の経験をお話しします。
重い話であり、起こった事自体は看過できない、してはいけない、絶対に許してはいけない深刻なものではありますが、今では自分の中で一応折り合いを付ける事が出来ているので、私に対するお気遣いは無用です。
一つの体験談として聞いていただければ。
私は性加害を受けた経験があります。
記憶にある限りで、1番初めは小学校4年生の時でした。
詳細は話したくありません。
いわゆる「最悪の事態」ではなかったけれども、衝撃的な出来事でした。
その時の気持ちは、驚いたのと恥ずかしいというのと・・・とにかく固まってしまって何も言えず何も出来ませんでした。
幼い弟と一緒にいる時でした。
被害を受けた事自体もショックでしたが、それ以上に心に重く残ったのは幼い弟の心に傷をつけてしまったのではないか、という思いでした。
加害者が立ち去った後、固まったまま立ちすくんでいた私に、弟が「変なおじいちゃんだったね」と声をかけてくれました。
弟がどのくらい状況を理解していたのかわかりませんが、多分私の様子を見て何か良くないことが起こったのだと察したのだと思います。
さりげない言い方だったけれど、弟が懸命に私を労わろうとしている感じが伝わってきました。
そして次の瞬間、弟に悪いことをしたという罪悪感が襲ってきました。
弟に可哀想なことをした。
見せてはいけない場面を見せてしまった。
姉として私が弟を守らなければいけなかったのに、守れなかった。
弟にとってもショックな出来事だったかもしれないのに、私が弟を気遣わなければいけなかったのに、それが出来なかった。
それどころか幼い弟に気を遣わせてしまった。
情けない。
自分が弱かったばかりに。
なぜあの時声を上げられなかったんだろう、毅然と拒否できなかったんだろう。
当時の私はクラスの中でも背の高いほうで、運動神経も良かったし結構力もあった。
低学年の時に、下校途中待ち伏せしていた男子3人を1人で返り討ちにした事もあるくらい、元気で活発で体力に自信がありました。
仮に加害者が逆ギレして暴力をふるってきても、多分負けなかったと思う。
私の父は典型的な昭和の親父で、鉄拳制裁は当たり前の人でした。
身体の弱い弟には一度も手を挙げた事がなかったけれど、健康優良児かつ勝ち気で生意気だった私はしょっ中鉄拳制裁を喰らってました。
それでも泣きませんでした。
むしろ睨み返していたそうです(父の証言)。
そんな強気な子だったのに何も出来ませんでした。
あの時、私が毅然と拒否できていれば。
「何さらしとんじゃ、このクソジジイ!」くらいの啖呵をきって撃退出来ていれば。
同じ「変なおじいちゃんだったね」でも笑い話に出来ていたのに。
弟を傷つけなくて済んだのに。
弟の心に傷をつけてしまったのではないか。
被害を受けたショックとかよりも、その罪悪感がずっと長い間、何十年も私の中にありました。
だから、性被害者が家族や近しい人になかなか打ち明けられないという気持ちはよく分かる。隠してしまう気持ちがよく分かる。
その弟も今では恰幅のいいオッサンになっていてあの頃の面影もないし、今では自分の気持ちに一応折り合いが付けられています。
罪悪感ももはやそこまでありません。
でもあの時に戻る事が出来たら、今度は絶対大声で拒絶する!
「何さらしとんじゃ、このボケ!ぶち喰らわされたいんか!」と言ってやる!
もし殴りかかってきたら、それをかわして殴り返してやる!
それが、被害を受けた後からずっと思い続けている事です。
今度同様の事をされそうになったら、絶対に反撃してやる!
幸い、その後そのおじいさんから被害を受ける事はありませんでした。
が、最悪の事態こそ免れて来れたものの、痴漢、セクハラ、それ以上の被害には何度か遭っています。
思っていたような反撃はほとんど出来たことがありません。
予兆があれば、心の準備が出来ていれば拒絶や反撃が出来るかもしれませんが、不意をつかれるとやはり何も出来ず固まってしまう。
理屈通りにはいかないものです。
だから、よく言われるように「拒否しようと思えば出来たはずだ」というのはちょっと違うと思います。
出来る人もいるかもしれない。
できる場合もあるかもしれない。
でも、若い頃の私のように勝ち気で体力自慢な人間でも思うように拒絶や反撃が出来なかったりする。
一概には言えないと思います。
ここからが本題になります。
被害者だと名乗り出た人の言う事を100%全面的に受け入れなければ「勇気を出して被害を訴えている人の言葉を疑うのか!」「セカンドレイプだ!」「自分(または家族)が被害を受けても同じ事が言えるのか!」という言論封殺がこのところ横行しています。
司法を通せ、という法治国家として当たり前の事を言っただけで、セカンドレイプだ、被害者に対する誹謗中傷だ、性犯罪を軽視している、容認しているとレッテルを貼る。そうやって黙らせようとする。
おかしな風潮が日本社会に蔓延しています。
証拠がなくても、客観的事実がなくても、噂と憶測、印象操作で、週刊誌を始めとするメディアが、それに煽られた世論が、誰かを簡単に犯罪者認定し社会的に抹殺できる社会。
被害者と名乗り出た人の言うことは証拠がなくても矛盾があっても疑ってはいけない、鵜呑みにしろ。
加害者またはその関係者は一切反論も否定もするな。被害者の主張を全面的に受け入れて認めろ、謝罪しろ。賠償しろ。
これ、慰安婦問題で、無知なくせに無駄に意識高い系を気取りたい欧米人に、日本国民が散々やられてきた事です。
日本国民は散々痛い目に遭ってきたのに、なぜこの類似パターンに気づかないのかな?疑問を持たないのかな?
反日偏向メディア(NYT、CNN、BBC、ガーディアン、ZDFあたり)と国連人権理事会がセットで出てきた時は、私は一回疑ってかかる事にしています。
これ以外の他の組み合わせもあると思います。
2つ以上のお馴染みの団体や組織が出てきて、それらが一斉に同じ方向に動き出したら一旦冷静になって情報を精査した方が良いな、と思っています。
そういったことを心がけていても、斎藤知事の件では一回騙されかけましたが。
私は性加害の被害者です。
自分では被害者という意識はあまりないので、被害を受けた経験がある者、という表現の方が正確かもしれません。
被害者という意識が希薄なのは、一つには自分の中で折り合いが付けられている事。もう一つは被害者ぶるのが嫌だという思いから。
元々被害者ぶりたくないという気持ちはありましたが、昨今の過剰で歪な状況を見てますますその思いが強くなりました。
自分も被害を経験したからこそ、今の被害者と名乗り出たもん勝ちの風潮を看過できない。
本当の被害者の名誉を何よりも傷つけているのは、この「言ったもん勝ち、報じたもん勝ち、被害者と名乗り出たもん勝ち」の風潮だと思うから。
私は「被害者」という絶対権力者にはなりたくない。
被害者という立場を嵩にきて他者を侮辱したり、過剰な要求をする一部の被害者と称する人たちと同一視されたくない。
被害者という立場を武器にしたくない。
多分同じように思っている被害者は多くいると思います。
声を上げられないだけで。
だって、「被害者」の言うことなす事全てに同調しなければ、少しでも疑問を呈したら「勇気を振り絞って声を上げた被害者を疑うのか!」「セカンドレイプだ!」「人権意識が低い!」そして「自分が同じ事をされても同じ事が言えるのか!」と弾圧を受けてしまうから。
今、日本で最も権力を持ってるのは週刊誌。
2番目がその週刊誌を味方につけた被害者と名乗り出た人。
この両者は今や絶対的な権力者になってしまっている。
誰も逆らえない。
一旦、彼らに加害者だと名指しされたら終わり。
伊東選手は真っ向から司法を通して闘ったから何とか名誉を回復できた。
でも失った時間は戻らないし、未だに伊東選手を犯罪者扱いする人もいる。
無責任に報じた側はほとんど無傷。
こんな理不尽な事ありますか?
証拠なんかなくてもいい。時効が過ぎてようが、示談が成立していようが、何なら証言が矛盾だらけで指摘されるたびにコロコロ変わろうが、一旦被害者という立場になれば何を言っても何をやっても守られる。
セカンドレイプだ!誹謗中傷だ!という魔法の言葉で相手を黙らせられる。
この風潮、本当の被害者たちが本当に望んでいるものですか?
少なくとも私は望まない。
自分も被害経験があるからこそ、法に則って、客観的事実に基づいて、正当に真っ当に裁くべき人だけを裁いてほしい。
心証や印象で人を裁いてはいけない。
実は事情を一部しか知らないだけの世間が、全てを知ったつもりになって正義を振りかざしてはいけない。
私刑、魔女狩りをしてはいけない。
本当の被害者が正しく救済されて欲しい。
そのためにも、言ったもん勝ち、名乗り出たもん勝ちではなく、事実に基づいて冷静で公平に問題を扱って欲しい。
他者の被害に便乗したり、利用したり、そんな輩に利益を与えてはいけない、成功体験を与えてはいけない。
被害者ビジネスをのさばらせてはいけない。
犯罪被害を、被害者を利用する事は許せない。
利用する奴らは、加害者よりももっと許せないです。
時代が変わって、性被害者が以前より声を上げる事が出来るようになった。
それは良いことです。
今までがおかしすぎた。異常だった。
でもだからと言って、その反動で反対方向に振れすぎるのも異常な事です。
それは、本当の意味で被害者のためにならない。むしろ足枷となる。
被害者の負担になるから、というところまではわかる。
だからと言って十分な調査はしない、被害証言の裏どりや検証をしないで一方的に断罪するのは違うでしょう。
きちんと調べないと事実関係はわからない。本当に被害に遭ったのかどうか、実際に何があったのか第三者にはわからない。
そこを、被害者への配慮を盾に有耶無耶にする事が、本当の意味で被害者保護に繋がるのか。
むしろ、事実の検証を中途半端にしたまま、被害者の証言だけで事実認定する事で、被害証言の価値が下がるのではないか。
言ったもん勝ちになったら、被害証言の信用度は下がり、本当の被害者はますます名乗り出にくくなる。
そんな社会になっていいのか?
こういった疑問や意見を言うと、かなりの確率で叩かれます。
加害者の肩を持つのか、自分が同じ目に遭っても同じことが言えるのか!?と。
なんで、「自分が被害に遭った経験がないからそんな事を言うんだ」と決めつけられなければならないのか。
全ての被害者が、被害を名乗り出ている他の被害者の言動全てに同調してるわけじゃない。
自分も経験があるからこそ違和感を覚える事もある。
被害者とされる人の言動には全面的に同調しなければならない、主張の全てを受け入れなければならない、それをしなければ「自分が被害に遭っても〜」というテンプレで黙らせる、こんな不当な圧力はいい加減にしてほしい。
今回、一生オープンにするつもりがなかった体験談をあえて書いたのは、それをカミングアウトしないと上に書いたことを言っても説得力がないだろう、まともに話を聞いてもらえないだろうと思ったからです。
自分が被害に遭った事がないから、他人事だからそんな事言えるんだ、と勝手に決めつけられて切り捨てられてしまうから。
自分の被害体験を明かさないと、今の被害者至上主義に疑問を呈する事さえ出来ない、思ってる事が言えない空気。
これだって私からすれば立派なセカンドレイプに思えます。