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いつもの妄想ですけど何か?信長は光秀の謀反がちょっと嬉しかった説

他ブログでの過去記事転載です。
ちょっとずつ、noteにお引っ越ししようと思ってます。


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うつけ者。

後の世の人に「戦国のカリスマ」「魔王」などと呼ばれる事になる織田信長。
そんな信長も若い頃にはうつけ者、すなわちアホ、バカ、愚か者、と呼ばれてました。

家督を継いでからは「こんなうつけ者に任せていたら織田家は滅びる!」と危機感を覚えた叔父など分家の親族から何度も攻め込まれ、弟からも二度命を狙われました。


トランプ勝利が決した後「こんな人物に国を任せたらアメリカは滅びる!」とばかり、アメリカ各地で行われている反トランプデモを見ていて、ふと信長の若き日のそんなエピソードを思い出しました。


トランプなんかと信長様を一緒にするな!というお叱りの声が聞こえそうな気もしますが、信長が家督を継いだ直後、織田家の一族や領民は今の反トランプ派アメリカ人と同じような不安を感じていたのではないか、と勝手な想像をしています。



それはさておき。

本能寺の変。

何故起きたのか。
何故光秀は信長を討ったのか、黒幕はいたのか、などなど、歴史の謎としてずーっとネタになり続けています。

光秀の動機の一つとしてよく取り上げられるのが、信長による光秀への暴行事件。
長篠の戦いの後の慰労会か何だかの席で「我等も長年骨を折った甲斐がござった」と呟いた光秀に、信長が「お前がいつ何を骨折ったのだ?」と激昂、欄干に光秀のおでこを打ちつけた、と言われている事件です。

私、以前はこの話が今一つしっくり来てませんでした。信長は短気で有名なので、ちょっとした言葉にカチンと来てキレてしまった、というのはある程度納得出来たんですが・・。それにしてもこの激昂ぶりが不自然過ぎるように思えたんです。

信長の様々なエピソードを見ると、短気というのは多分事実だったんだろうと思います。だからと言って、ただ理不尽に家臣を扱ってたとは思えない。家臣を罰する時には信長なりの理由や計算がちゃんとあって、ただただ感情の赴くままに当たり散らしたりはしない人じゃなかったかと思うんです。

信長には、自分に楯突く者は誰であろうと許さない、というイメージがあります。確かに実の弟の殺害や比叡山焼き討ちなど、容赦がない。
一方で信長に反旗を翻した家臣、柴田勝家や松永久秀を一度(松永は二度か三度?)許したりもしています。
信長という人は、好き嫌いとか腹立つ立たないではなく、役に立つか立たないかを合理的に判断して人事を決める人だったと思います。例えば松永の事も、信用はならないが殺すには惜しい、まだ使える男、と判断したんでしょう。

私の中で信長はそういうイメージなので、光秀へのヒステリックで意味のない仕打ちがどうしても腑に落ちなかったんです。

本当にそんな出来事があったんだろうか。誰かが何らかの意図で創作した話なんじゃないのか?

この一件は、イエズス会の宣教師で信長の庇護を受けていたルイスフロイスの手記にも出てくるそうです。

イエズス会と言えば、都市伝説とかでおなじみのフリーメイソンに関連して名前がチョロチョロ出てくる団体。う~ん、ますますアヤシイ。


ところが。


2~3年くらい前だったでしょうか、歴史の専門家や歴史好き有名人が集い、本能寺の変について語り合う番組で、ある出演者が言った事を聞いて私はハッとしました。

「信長は天下統一を果たした後の日本の統治について、既に明確な構想を持っていた。その実現の為に欠かせない自分の両腕として光秀と秀吉を考えていた」


なるほど!そういう事か!
そういう事なら納得できます。

つまり、その頃の信長にとって光秀はただの家臣の一人ではなかった。いずれ自分の片腕として国の運営を任せるべき特別な存在だった。


信長は最初から光秀の事をかなり高く買っていたと思います。光秀は鉄砲が上手だったとも言われてますし、戦上手で教養がある上、天皇や公家が話す独特の京言葉も使いこなし、朝廷との繋ぎ役がこなせる数少ない武将だったらしい。
それまでの他の織田家家臣にはいなかったタイプだというのもポイントが高かったかもしれません。

ただ、それだけに物足りなさもあった。光秀は何でも出来てしかも品行方正な、いわゆる優等生タイプです。朝廷などの権威には敬意を払い、神仏を信じる常識人。秀吉のようになりふり構わない泥臭さや人の意表をつく面白さがない。
「能力が高く信頼に足るが、やや退屈な男」というのが信長の光秀評だったんじゃないんでしょうか。

光秀が功績をあげて出世し信長に近くなればなるほど、信長の「コイツ、物足りない」という気持ちは募り、それがやがて苛立ちに変わっていったんじゃないんでしょうか。

あの暴行事件のべースには信長のそんな苛立ちがあったんじゃないんでしょうか?



信長は武田信玄に対して畏怖の念に似た感情を抱いていたと思われます。機を捉えてしばしば信玄に手紙や贈り物を贈ったり、かなり気を遣っていたようです。信玄の死後も勇猛果敢で知られる武田には常に注意を払い警戒していただろうし、家臣達もその意識は共有していたと思います。

だから、長篠の戦いでの勝利は織田一門にとって一つ大きな山を越えたようなものだったでしょう。光秀の「我等も長年骨を折った甲斐がござった」もそんな心境から自然と出てきた言葉だったと思われます。

でも信長にとって、この戦は既に一つの通過点にしか過ぎなくなっていた。その頃にはもう信長の中で天下統一は規定路線になっていて、その先の先を見て、より大きなビジョンを心に描いていた。

多分、信長のそうした意識の変化を、人たらしの秀吉は気づいていたと思います。言葉にして伝えなくても秀吉は理解できていた。
それでは、もう一方の片腕候補・光秀はどうかと言うと、長年の苦労が報われたとホッとして一息ついている。

そこに信長はイラっと来たのではないでしょうか。


多分「骨折り」発言をしたのが他の家臣だったとしたら、たとえイラっときたとしても信長はその場は黙って受け流したかもしれません。その代わり働かせるだけ働かせて、後は適当な所でクビにして放り出したかもしれません。

光秀という大事な人材だからこそ許せなかった、見過ごせなかった。

「光秀ほどの者が何故分からない!何故俺の考えについて来られないんだ!」

この事件の後、信長は光秀に対して(光秀の目から見て)辛く当たるようになります。信長のせいで母親も亡くしてしまった。何かある度に光秀は暴行事件を思い出したかもしれません。
「私は親方様に見限られつつあるんじゃないか・・」光秀が疑心暗鬼に陥り、どんどん精神的に追い詰められていったとしても不思議ではありません。
その不安はついに現実のものになってしまった。
毛利攻めを任されていた秀吉の援軍に向かえという命令。それは光秀が秀吉の下につく、という事です。同等なライバルだと思っていた秀吉の下につく・・それは光秀にとって耐え難い屈辱。
「遂に親方様は私を見限った。私はいずれ織田家から放逐される・・いや、命すら危ういかもしれない」光秀は絶望と恐怖に苛まれた。

更に信長は光秀から現在の所領を召し上げる代わりに(まだ毛利の支配下にある)出雲・石見を切り取り次第、という通告をします。つまり自分で自分の領地を取ってこい、という事です。

これを光秀は左遷と受け取った。

これが最後の一押しになったと言われています。


鬱々とした思いの中で援軍の準備をしていた光秀が、どの時点で信長討ちの最終的な決断をしたのかはわかりません。もしかしたら信長のお供が100名ほどしかいない、という情報が耳に入った時だったかもしれません。
(信長が何故そんなに無防備だったのかも私にとっては謎の一つです)
何はともあれ、光秀は信長の不意をつくことに見事に成功しました。

実際に本能寺の変の顛末がどうだったのか、細かい部分は諸説あり、どれが真実に近いのかよくわかりません。

私は、私が戦国時代と大河ドラマにハマるきっかけとなった「秀吉」(96年大河、竹中直人主演)に影響されているので、本能寺の変に関する妄想も「秀吉」がべースになっている部分が多いです。

本能寺を囲んでいる敵が光秀だと、森蘭丸(松岡昌宏、スゴく似合ってました)から知らされた信長(渡哲也、さすがの貫禄)が言ったとされる名台詞「是非に及ばず」。
この台詞を言ったのが事実だとしたら、信長はこの一言にどんな思いを込めたんでしょう?

もしかしたら、光秀の謀反を知った時、信長は「しまった!」と己の無防備を悔い、目をかけて引き上げてやった光秀の裏切りに怒りを覚えつつも、同時にちょっと嬉しかったんじゃないか、と私は思っています。


光秀と秀吉。
どちらも能力が高く、でもキャラクターは正反対の二人を共に重用し競わせる事で、二人が更に成長することを信長は望んでいたんじゃないでしょうか。

信長が光秀に秀吉の援軍を命じたのも国替えを指示したのも、決して左遷の意図があったとか見限ったとかではなく、光秀の発奮を促す為だったんじゃないのか。

残念ながらその信長の親心(?)は光秀には伝わらなかった。あまりにも二人はキャラクターが違いすぎたんだと思います。


心がすれ違ったまま、本能寺で対峙する事になった主君と家臣。

でもその時ようやく、信長はずっと見たいと思っていた、今まで一度も見たことのなかった光秀の姿を見る事が出来たんじゃないでしょうか。
 

真面目で従順で意外性のかけらもないと思っていた光秀が、一瞬の隙をついて主君である信長に立ち向かってきた。初めて信長を驚かせる行動に出た。

下剋上の世に生きる、戦国武将らしい気概を見せた光秀に、信長はようやく満足したんじゃないでしょうか。
自分が能力を認め重用してきた光秀の、そんな姿を誇らしく感じたんじゃないでしょうか。


「光秀め、やりおるわ。」

「秀吉」の中で信長がニヤッと笑って発した台詞です。

私が「信長は光秀の謀反がちょっと嬉しかった」を妄想してしまうのは、多分この台詞に感化されてるからだと思います。

信長も光秀もどっちも好きだというのもあると思います。

この二人が、ただ憎み合って死んでいったと思うのはあまりにも切ない。
最後に、同じ戦国の世に生きた武将同士、何か通じるものがあったと信じたい、そうであって欲しい。


多分、こういう考えは、信長と光秀の実像や二人の間に起こった出来事の真実に比べてナイーブ過ぎると思います。

戦国時代はそんなに甘い時代じゃない。多分、私達が想像するよりずっと。

それでもやっぱり信じていたいです。




ちょっとぐらい勝手に、自分の信じたいように信じてもいいですよね。

だってあの時代を生きた人は今、一人もいないんだから。あの時代を見てきた人は一人もいないんだから。
あの時代に何が起こったのか、何が真実なのか、本当の所は誰にも分からないんですもん。


いや、もしかしたら分かる人がいるかも。

「信長協奏曲」みたいな事が絶対にないとは誰にも言いきれない。
1回タイムスリップして戦国時代に行って、帰ってきた人がいるかもしれない。
(松永久秀が、現代からタイムスリップしたヤクザだったという設定、アイデアは上手いなあと思いました)

もしくは信長自身がタイムスリップして、今の時代に生きてるかもしれない。

だとしたら、信長は今どこで何をしているんだろう・・・。


こういう妄想し始めると、楽しくて止まらなくなっちゃうんですよねぇ。

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