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会津塗の里、会津若松市のメーカー数社回ってきました。

今回は会津塗りの里、会津若松市の数社へ訪問、商談してまいりました。その際に訪れた街の様子や展示・販売所のご紹介です。

まずは鈴善さん。漆、会津塗りの歴史を詳しく展示してあります。ここは街に入ったら最初に行くのがいいかもしれません。製造過程や歴史の全体像を把握することができます。

入り口はこんな感じです。この後ろ側に漆器、地元のお酒が販売されています。

展示場は無料で見ることができ、二階までびっしりと漆の道具なども展示されています。

以前はとても盛んだったという杯。

場所を移して、販売所へ。漆のフリーカップ。これは軽くて使い勝手がいいと思います。

福西惣兵衛商店さんへ。お取引も開始させていただいたばかりです。

会社のご紹介はこちら。取り扱いの品を少しづつ増やしていければと思っています。

商談の合間に少し時間ができたので、街で一番のにぎわいと地元の方に教えられた、七日町の通りへ。お土産屋さんや、漆器やさんなど蔵を改造したお店が立ち並んでいます。1kmくらい散策できます、

途中、雰囲気ある看板を見つけ、撮影!

誘惑にまけ、地酒の利酒。この「わ」が気に入り、その後の会食で結果2合いただきました!おいしいお酒に感謝!!

改めて現場を見てお話を伺うと理解が深まり、課題も見えてくると実感した時間となりました。

ここからは、歴史・背景のまとめをお届けします!

会津塗の歴史

始めに、どのように会津漆器が生まれ、現在まで脈々と受け継がれてきたのか、その歴史を紐解いていきましょう。

室町時代に誕生した会津塗

会津地方は古くから漆の産地で、生産が始まったのは輪島塗や津軽塗りよりも早く、室町時代に始まっていたと言われています。

当時、会津藩の藩主は盆地の気候を活かして漆の木の植林を始めました。漆の木の種は硬い果皮に覆われ、自然な発芽が難しい為、自然に漆の木を増やすのは非常に難しいです。

さらに漆の木から漆の樹液を採取すると、その木は役目を終えて伐採されてしまいます。果物のように、翌年も同じ木から同じ量の樹液(漆の原料)を採ることが出来れば良いのですが、それが出来ないのが漆の木の栽培の難しいところです。

そこで漆の木を増やす為には、苗木を確保して人が植林する必要があります。このような漆の木の性質を理解し、会津藩は漆の木の植林をすすめてきました。

漆の樹液から取れる漆は防腐力や抗菌力が高く、漆を塗った漆器は古くから暮らしに取り入れられ、漆器づくりも広まっていったと言われています。

このように盆地特有の気候と山に囲まれ材料に恵まれたこと、また安土桃山時代以降の藩主によって漆の木の栽培が奨励され、代々会津塗が保護されてきた背景があり、会津塗が発展してきました。

秀吉の命令でやってきた蒲生氏郷が産業成立させた会津塗

安土桃山時代になると豊臣秀吉の命令で会津藩藩主となった蒲生氏郷(がもううじさと)によって産業としての会津塗の基礎が作られました。
千利休の弟子を務めていいた蒲生氏郷は、弟子の中でも特に優れた利休七哲に数えられる文化人でした。蒲生は、会津に来る前は日野椀という漆器の産地として有名な滋賀県日野の領主でした。

当時、蒲生は会津入りに際して木地師(キジシ)や塗り師など日野出身の漆器の職人を会津に招き、高い技術力を会津の職人に広めました。こうして、会津に漆器産業が成立したのです。

蒲生によって設置された「塗大屋敷」と呼ばれる漆器の伝習所では、職人の育成や技術の向上がなされるとともに会津藩からの保護を受けるようになりました。
こうした取組みにより安土桃山時代以降、会津塗りが産業として発展していきます。


江戸時代、会津徳川家の保護のもと、隆盛を遂げる

1643年に会津藩藩主となった保科正之が、漆の木の保護育成を奨励し会津漆器を保護したことで、さらに産業として発展していきました。江戸初期には、会津藩で20万本ほどだった漆の木は1700年頃には100万本を超えるほどとなりました

その後、5代藩主松平容頌の家老田中玄宰(たなかはるなか)は京都から蒔絵師を招き、新しい蒔絵技術を取り入れました。

さらに、江戸のみならず長崎を通じて中国やオランダへ輸出したことで会津漆器産業は世界的にも注目を集めるようになったのです。

このようにして、江戸時代には会津徳川家の保護により、塗りや加飾の技法も多様化し、会津塗の文化が花開いたと言われています。


戊辰戦争の苦悩と再起

室町時代から安土桃山、江戸時代と発展を遂げた会津塗ですが、1868年に戊辰戦争が起こると一時的な衰退を余儀なくされました。

戊辰戦争において会津藩は旧幕府軍につき、新政府軍と戦いました。戊辰戦争は新政府軍が勝利し、戦場となった会津一帯は焼け野原となり会津塗りは壊滅的な打撃を受けてしまいました。

しかし、1872年パリ万国博覧会に出品されるなど明治の中頃には再び日本有数の漆器産地として復興を遂げることができました。

大正時代になると、一部の機械化に成功するとともに漆の技術が高級化したことで地場産業として盛り返します。この頃には、高級漆器と大衆漆器の差別化が行われ、会津塗の需要が高まったのです。

戦後には、アメリカ向けの輸出がヒットし、高度経済成長期には素地をプラスチックにした手軽な会津塗りが生まれるなど、さまざまな試みが行われてきました。
戦火で途絶えてしまわれるかと思われた伝統技術は、職人の高度な技術と会津漆器を愛する人たちのアイデアによって現代まで受け継がれてきたのです。


会津塗のこれからと挑戦

会津塗りは、1975年に経済産業大臣指定の「伝統工芸品」となり、2019年にはその技術が会津若松市の指定無形文化財に指定されました。

現在は、椀や花瓶、茶器などの伝統的なものに加えて時代や生活様式の変化に合わせ、酒器やカトラリー、アクセサリーなど多様な製品を生み出しています。会津漆器は消費者のニーズにあわせたモノづくりが行われています。

また伝統産業である会津塗を後世に受け継いでいくには、後継者となる職人の育成が肝要です。会津若松市では、会津漆器の職人を目指すための技術講習会が、週3回行われるなど後継者を養成するための活動も行われており、今後の会津塗にさらなる期待が高まります。

会津塗りの原料と作り方 など詳細は以下にまとめています。


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