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⚖ 6年+本人訴訟【36】都職員S本 申立て事案を放置(不作為)後,握りつぶし?【4】

↑ 画像は,東京労働局(厚労省)が開示した事件当時,ハローワーク飯田橋が作成し,東京都が受領した苦情連絡票の,申立内容部分
(本連載【35】↓ のつづき)

事件当時の、校内での私と他の学生
私の中で、そういった対応を受けて当然と思える、自身の言動等に少しでも心当たりがあったなら、ショックもパニックも半狂乱もなく、その後、今に至るまでの、裁判と向き合い続ける6年間の苦闘もなかったはずです。私は、全く身に覚えがありませんでした。福祉を志す者として、人との調和に配慮し、クラスの最年長者として若年者に恥ずかしくないよう、言動に留意していたつもりです。

事実、学校で、希望者がいなかったため自主的にクラスの副委員になり、毎週のそうじ等のまとめ役をし、状況に応じ、昼休みに一人でトイレ掃除をしていました。それ以前には、震災時の災害ボランティアも重ねていましたし、数年前には介護ヘルパー資格を取得してセカンドキャリへの準備も始めていました。社会的弱者の一助になりたい、との思いであり、介護福祉士を目指した理由もそこにありました。退校した翌年以降、裁判の傍ら、盲人ガイドヘルパーの活動を始め、それは今も続けています。

訓練生として、日額5千円余りの失業給付を受けながら、授業料を負担せずに国家資格を取得できるというチャンスは、本当に偶然に得たもので、内心、申し訳ないような気がしていたこともあり、「無駄にしないよう、しっかり学び、後に貢献して還元するのだ」と意気込んでいたのです。
 
今思えば、そういった私の志や姿勢が、アカハラの一因となり、拍車をかけたのかもしれません。

当時、介護福祉学科1年のクラスの学生は、センターから委託された訓練生としての学生が、私を含めて7人(20代が1人で、他は40代と50代)と、高校を卒業したばかりの女子が1人の、計8人でした。私は、当時、52歳でした。

ちなみに、同校のその年の一般入学者は、彼女を含め計3名のみでした。主に、センターからの訓練生のほか、アジア諸国からの留学生数十名により、かろうじて維持されている状態で、校舎は8階建てですが、使用されている教室は僅かでした。
 
私は、入校してみて、同校の実態に驚きましたが、とにかく介護のスキルと関連知識を得て、国家資格を取得して多少の自信を持って就きたい一心でしたので、「小人数の方がしっかり教えてもらえるかも」と期待してもいました。
 
幸い、学生たちはみな、年齢や国籍を超えて、私と親しく接してくれていました。クラス内では、途中、Aと講師Bによるハラスメントの影響で、一時的に孤立しかけたこともありますが、それもすぐに解消されました。事実、後期試験前には、「不合格ありき」が懸念されていた実技試験に向け、MTさんとRKさんが、私と一緒に、練習を重ねてくれていました。2人には、「これで不合格のはずがない。先生を信じないと」と言われ、私は、不安は払拭できなかったものの、前向きに臨むことにしたのです。

後に、MTさんは、除籍予告を受けた後、教員Cの私への対応実態を記載した書面を確認し、「相違ありません」として署名してくれた他、裁判でも、陳述書を提出してくれ、後期試験判定の不当さを含め、第三者として証言してくれています。

そのように、校内で、私は他の学生といい関係にあったからこそ、アカハラに遭っても継続を臨み、結果として、一年間での欠席は2日のみで済んだのです。
 
とはいえ、私は、事件当時、除籍連絡を受ける直前まで、クラスメートの誰にも、自分からハラスメントのことを話したことはありません。後期試験前の、平成30年1月、授業中のCの私への対応があまりに異常だったことから、クラスメートが自ずと「先生がおかしい」と察知し、私を気遣い、協力を申し出た結果でした。私は、問題が複雑になり、エスカレートするのを恐れ、それまで家族と一部の旧友に相談するにとどめていたのです。

また、平成29年6月28日に、Bから股間を叩かれる迄、私は、「特に反応しなければ、そのうち相手も諦めるだろう」と思い、家族にも誰にも話さず、寡黙に流していました。
 
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