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「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」(東京都美術館)

 東京都美術館で開催中の、日本画家・田中一村いっそんの大規模回顧展。興味がありつつも今までの展覧会をスルーしてきたが、今回は見逃せないと思い観覧してきたので、思いついたことや感想など。

 展覧会の構成はオーソドックスで、年代順に作品が展示され、序盤から晩年にかけて様々に変わる画風を楽しむことができた。


南画からのスタート

 第1章では幼少期から天賦の才を発揮した一村の南画風の作品が多く並ぶ。
 彫刻家であった父・稲邨とうそんから与えられた画号・米邨べいそん時代の作品だ。稲の息子が米というのは安直なようでちょっと面白い。

 なるほど幼いころから、かなり大人びた作品を制作している。
 子どもの絵といえば道端の草木やおもちゃ、家族の顔などになりそうなところ立派に南画風の絵を描いているあたり、何か手本を見ながら鍛錬したのだろうと想像できる。

 米邨の画号を与えた父親は、才気あふれる息子のプロモーターでもあったようで、積極的に彼の作品を紹介するなどしていたらしい。
 おそらくイメージソースとなる作品や絵手本、さらには印章なども惜しみなく授けていたはずで、若き日の一村もまたそれに応えいかんなく才能を発揮している。まるでレオポルト・モーツァルト……と言ってはちょっと大げさか。

 水墨中心と思いきや、濃彩の草花図なども若い時代からあり、南画のみに偏って学んでいたわけではないことがわかる。東京美術学校(現在の藝大)をわずか2か月で退学しているが、その後すぐに個展が開催されたりと(発起人に衆議院副議長などいるのが驚き)、早くから支援者にも恵まれていたようだ。

 幼い頃の絵は後年に比べれば拙さが感じられるところもあるが、筆の勢いがあって魅力的だと思う。その巧みな筆さばきは立原杏所のような江戸時代の絵師を思い出すのだが、彼はどんな絵を見て、吸収していたのだろうか。


長い模索の期間

 第1章の後半から第2章にかけては、20代以降、相次ぐ家族の死や戦争といった困難な状況下での多様な画風が見られる。

 主題も幅広いが、技術もとても多彩。
 やまと絵風のひな人形や、画面を覆いつくす濃彩の草花図、千葉の情景を描いたのどかな風景画から、羅漢を描いた風景画まで自在な筆捌きを堪能できる。

 風景画の肩の力が抜けたような淡い彩色や、ちょっとした濃淡の差で陰影や奥行きを感じさせる表現は目を見張るような巧みさがある。
 ただ一方で、一村自身、自分の納得のいく型のようなものを確立しきれず試行錯誤の連続であったようにも感じられた。なんでもできてしまう故の高次な悩みなのか、と凡人にはそうも見えた。

 戦中に徴用工として働いていたらしく、これも自身の方向性を固めきれない要因になっていそうだ。南画から一度離れながら、戦後、いわゆる「日本画滅亡論」なども唱えられる時期にまた過去の大家の模写などしているところも、あらゆる手を尽くして自身の納得のいく作品を追求しようという姿勢に思える。


公募展への挑戦

 第2章の後半で、一村の公募展への挑戦を垣間見ることができる。
 画号を「一村」に改め、川端龍子が主宰する青龍展に《白い花》という作品で入選。白と緑で占められた色数の少ない画面の中で、1羽だけ描かれたトラツグミが印象的な屏風作品だった。

 キャプションにもあったが、一村は余白を大きく取らずに草花を描き込む構成が得意だったようで、また終生それが好みだったようにも見える。
 《白い花》のような作品を続けていけばあるいはこの時期である程度の評価や注文も得られていたのかもしれないが、公募展での入選は結局これが最初で最後だったという。日展や院展への挑戦も不発に終わっている。


奄美で無二の作風へ

 50歳を過ぎてから奄美大島に移り住んだ一村。
 蓄えを持って穏やかな隠遁生活とはいかず、染色工場で一定期間稼ぎ、それを元手に制作、それがなくなればまた働き……という厳しい暮らしをしていたようだ。

 このなかで生み出された作品が一村の最も有名たらしめたものたちだろう。メインビジュアルになっている《アダンの海辺》ももちろんここに含まれる。

 写真的な写実ではないが、濃密に描き込まれた画面からは一村の絵画にかける熱量が伝わってくる。

 ただ一方で、奄美で描かれた作品はどこか冷めたような印象も受ける。
 個人的に、温暖な地域に移住した画家は暖色系に増え、画面の明度が上がる傾向があると思っている。強い日差しがモチーフを照らしている。しかし、一村の作品では画面を覆うモチーフが、雲が太陽を遮っている。《アダンの海辺》がまさにそうであるが、斜陽的な雰囲気が漂っているのだ。
 決して理想的とはいえない画業のなかで、それでも自分の納得のいく絵画を求め、人生の終盤を迎えようとする一村自身とつい重ねてしまう。 

一村という画家の印象

 私のなかで田中一村という画家は、離島で暮らしていた・画壇と距離を取り独自の画風を開いたという点で、不染鉄ふせんてつと同じような画家とカテゴライズしていたが、今回の展覧会で印象が変わった。(改めて検索したところ、不染鉄も一村も東京の芝中学に進学しているという共通項もあった。不染鉄は素行が悪く放校になったそう。)

 一村は画壇での成功を意識し、自身の作品を公募展で認めさせようという意欲が強くあった。今回出品されている支援者に宛てた書簡でも、再興院展への出品作への並々ならぬ決意と思い入れを記してあった。このときの出品画が行方知れずになっているのはとても残念だ。
 青龍展での2点の出品のうち、自信のあった方が落選したことに不満を持ってもう1点の入選を辞退したという話は、一村の強い自負が感じられるエピソードだ。

 彼が2か月で退学した美校の同期には、東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾といった後の画壇の重鎮がいたそうだ。
 早くから才能を発揮した一村は、そんな同期をはじめとした画家たちに劣らないという意識も持ち続けていただろう。勝手な憶測だが、画壇でのチャンスを摑めなかったのには、支援者ではなく画家とのコネクションの乏しさにもあったかもしれない。また、存命中に個展を開くという願いが叶わなかったは、プロモーターたる父を早くに亡くしたことが一因とも思われる。

 そんな葛藤の果てに奄美で作り上げた画風がいま彼の名声を最も高めることになっているのを考えると、芸術家の人生というのは難しい。

 ただし一方で、彼の書簡や支援者に向けて描いた小品には、彼の誠実でまじめな人柄も現れていたと思う。旅行先の風景を描いたスケッチなどが展示されていたが、これを受け取ったら嬉しいだろう、と感じられるやさしい作品だった。

 第3章で見られる彼の作品のどこか退廃的な空気はゴーガンのようでもあり、モチーフが濃密に埋め尽くす画面はアンリ・ルソーのようでもある。日本の画家でいえば、江戸時代に油絵の表現を目指した司馬江漢や小田野直武のようなシュールさも感じられた。
 ただ、先人の作品の模写もよくした水墨の時期とはまた一線を画して、彼の奄美時代の作品はやはり彼独自の境地であると思う。

 日本近代美術史は一村のようにメインストリームから外れた画家の再考がどんどん進んでいると思う。今後更なる研究の進展に期待したい。
 いずれ奄美にある彼の美術館にも行って、彼の見た景色とともに作品を楽しんでみたいと思った。


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