MBD(微細脳障害)の第一人者と目された・プーさんこと鈴木昌樹さんは、自己診断でMBDだった……
昨夜、念校をすませた〈こころ学シリーズ〉Ⅲ巻『「発達障害」とはなんだろう?』。
小出しで恐縮ですが、本文を公開していきます。
いや! 私は本になってから読みたい!!という方は、以下は読まないでください。
購入はこちら↓↓↓
もしくは、こちらで↓↓↓
さて、Ⅲ巻は既刊巻同様に、プロローグとエピローグをはさむ章立ての構成。
今巻は、4章からなる章立てで、各章に「枕」があります。石川さんが小児科医から児童精神科医時代に診療室などで出会った人たちのエピソードが紹介されています。「発達障害」をめぐって研究者らが論争を続ける、その最前線の診療現場に石川さんはおられました。歴史の生き字引。
Ⅲ巻、第Ⅰ章の章題は、「薬剤依存への道──AD/HDの治療から」。Ⅱ章は「分類処遇によってすり替えられる診断──LDから始まる知の分断」Ⅲ章は「新たにつくられていく障害──『自閉スペクトラム症』とはなにか?」Ⅳ章は「『発達障害』の問題を解決するために」
目次の詳細は、こちらからどうぞ↓↓
第Ⅰ章の「枕」に冒頭に登場するのは、今日「発達障害」診断のきっかけと論争にもなった微細脳障害(MBD)の研究者であった故・鈴木昌樹さん。石川さんが「障害」「精神疾患」について、なぜ今日のような考えに至ったのか。そのきっかけになったこと、経験や出会いのいったんも読み取れます。
こころ学シリーズ第Ⅲ巻 「発達障害」とはなんだろう? 第Ⅰ章のはじめに
●MBD(微細脳障害)の第一人者・プーさんとの出会い
私が医者になってはじめて出会った自称「発達障害者」は、プーさんです。
「もし子どもの頃、ぼくのような医者がいたら……。きっとぼくはMBD(微細脳障害)と診断され、投薬されて今の自分はいなかったでしょね」。
これはプーさんの口癖。じつはプーさんこと鈴木昌樹さんは、私が医者になった頃MBDの第一人者と目されていた東大小児科の講師でした。MBDというのは、今日は「発達障害」と呼ばれるようになった多様な障害の大部分を含む、当時の診断名です。
一九七三年の春。新米医師として出勤した初日の朝、病棟の玄関を入って最初にすれちがったのが鈴木昌樹さん。のちに精神発達などを詳しく手ほどきをしてもらった、小児神経学の大家です。
恰幅のいい体格、漂う風格。この人が教授にちがいない。小児科の授業をサボっていた私がそう早とちりするほど、威厳がありました。実際にはまだ専任講師でしたが、生真面目で律儀、人並み外れて頭の回転が速い人でした。
一見して受けるつき合いづらい印象とは裏腹に、誰にでも丁寧で誠実、話し好きでとても人懐こいところもあり、皆から「プーさん」と呼ばれていました。一緒に酒を飲むと必ず話してくれたのが、このニックネームの由来。ピペットで血液を吸おうとしてもどうしても上手くいかず、逆にプッと吹き出してしまうという逸話です。
当時小児科医が受ける最初のトレーニングは、耳朶(じだ)採血。耳たぶを少しだけメスの先で切り、微量の血液を小ピペットで採るのです。血が直径二ミリくらいの球形になるように整え、口で吸い取るのです。
採血量を厳密にするために、多数の微細な筋肉を協調運動させながら、唇と舌と呼吸を微妙に調整して吸う必要があります。不器用な私も大の苦手でしたが、さすがに吸おうとして吹き出すようなことはありませんでした。
そんなプーさんがしみじみと語ってくれた先の言葉。いったい、その真意はどこにあるのか、そのうちぜひ確認したいと思っていたのですが……。残念ながら一九七八年夭逝され、永遠に伺う機会を失いました。
●記憶力抜群の中学生・カキやん
じつは私は一九七六年頃から、彼の診てきた患者さんをひき継ぐことになりました。鈴木さんが他界される前年から、分院課長となって転出されることが決まったためです。これが、神経発達障害との本格的な出合いでした。
当時、小児科で「発達障害」といえば、「知的障害」「身体障害(主として脳性麻痺)」「てんかん」の三つの状態が大部分でした。鈴木さんが始めた新分野MBDやその関連領域(「言語発達障害」「情緒障害」などと呼ばれていました)は、ほとんど未知の世界でした。
まず出会ったのが、お母さんが「幼稚園に入るに入るまでは天才、幼稚園では変な子、小学校から鈍才」と評する中学生カキやんです。
病院で会う彼は常にラジカセを持ち歩き、当時流行のザ・ベンチャーズを聴いていました。どこでどう好きになったのか、いったいなにが楽しいのかなど、いっさい不明。いつもニコニコ上機嫌でしたが、不思議だったのは音楽を聴きながら独り言をつぶやきつづけること。
それも「ベンチャーズ、一八六五番、この曲は一九◯◯年に制作され、△△劇場で初公演、以後一六五万六〇〇〇枚のレコードを……」などという曲に関する詳細な知識です。
一見して、自閉症とわかりました。周囲と無関係に自分の世界に籠り、いつも同じパターンを同じようにくり返す。ただ「自閉」という言葉が示すようには周囲に無関心にはみえません。むしろ他者に興味がありそうにみえるのですが、会話をつなげようとしてもなかなかうまくいかないのです。
いつも大声で「こんにちは」と元気に挨拶して着席。初回などは「ぼくは、柿谷信二です。第三中学校の三年生です。住所は……」と自己紹介してくれました。具体的な日常のことを質問すると、必ず「それは……です」と丁寧にに、しかし簡潔に答えてくれます。
問題は「どうだった?」などと感想を尋ねるようなときに起こります。返事は「よろしかったです」「よろしくありませんでした」の二つがほとんど。声に抑揚がなく一本調子のしゃべり方で、表情も変化しません。いくつか質問を終えるととりつく島がない感じに陥り、後はなにを聞いていいのか困ってしまいます。
唯一の例外は、ベンチャーズについての質問です。これには得意になって何時間でも延々話しつづけてくれます。ただ、いつ聞いても、何度聞いても、まったく同一のストーリー。これを診察のたびにくり返すわけにもいきません。
カルテをみると、こんな子だったようです。入園前後から文字を読み書きし始め、やがて数ケタの暗算も瞬時にこなせるようになった。記憶力が抜群で、電車の駅名や時刻表の細部もすぐに覚え、聞くとスラスラ教えてくれる。
しかし、幼稚園では先生のいうことなど馬の耳に念仏。まわりと無関係に一人で立ち歩いたり、計算の世界に没入してぶつぶつ独り言をつぶやきつづける。それでも人と一緒にいるのは大好きで毎日園に通い、パターン化された活動だけは自分の決めたやり方で参加する。
小学校も、最初のうちは算数や国語で一目置かれる存在でした。しかし、文章題や応用問題になるとまったく興味を示さず、ひたすら超然とした態度で数遊びの世界に没入。ついに養護学校転校をすすめられることになります。
しかし、人に指導や指図をされても完全にスルーするタイプのうえ、決まった生活パターンを崩すのがなによりも苦手。結局そのままずっと普通学級に通いつづけて中学生になりました。
話は毎回同じ。投薬も検査も不要。
鈴木さんのように豊富な知識も経験もない若い医者には、なにもできることが浮かんできません。小児科医ですから、会話できないことは苦になりません。赤ちゃんでも、表情、身振り、態度などのなんらかの反応から、気持ちを推測するのがプロです。しかし、彼とはどうやっても上手くいかないのです。
●多動な子どもたちへの投薬
しかし、彼はまだ楽でした。スルーしていればいいだけですが、手を焼いたのはMBDの中核と目されていた多動な子どもたちです。
ほとんどじっとすることができず、「キーッ、キーッ」と大声を発して騒いだり、脱走して院内各所を飛び回る子。メカに興味を示し、機械を点検したくて病院中をふらつき回る子。中には電車の線路内に立ち入り、線路を点検するのが好きな子もいます。診察中、気を抜いたり、目を離すことができません。
ただ最初のうちは鈴木さんの処方に従って、リタリンという覚醒剤を処方することでなんとかなっていました。服薬して数十分経つと、動き回ったり、騒いだりしていた子が嘘のようにピタッと静かになります。
鈴木さん以外には、まだ少数の医師しか使用していない薬でした。彼に習った通りのやり方で私も初診の患者さんに投薬するようになると、ピタリと効きます。親御さんたちから「信じられません。おかげでよくなりました」などと感謝されると、医者冥利でちょっと得意になっていました。
ところが、五人目の子どもの親はちがいました。二度目の来院で、いきなり「先生、これなんの薬?」と聞かれたのです。「覚醒剤です」と答えたところ、「あんたヒロポンを子どもに盛ったのか!」と激怒。いくら説明してもおさまりません。「私の兄はヒロポンでヤクチュウにされ、廃人になった」「たしかに、リタリンを飲むと子どもはおとなしくなる。でもこの子らしい目つきじゃなくなり、兄と同じ目つきになった」というのです。頭がガーンとなりました。ただただ不明を謝りました。
そして以後、私はリタリンの原則使用禁止を呼びかけつづけるようになりました。
ヒロポン。今ではこの名を知る人はごくわずかかもしれません。じつは日本では一九世紀末、世界に先がけて覚醒剤の開発が行われました。その結果、ドイツでアンフェタミンが開発されて間もなく、メタ(ア)ンフェタミンという類似化合物を生成し、これが後に「ヒロポン」と呼ばれるようになります。ヒロポンには緊張を要する戦闘機のパイロットの意識を通常以上に高め、不安を回避させつつ意識を持続させるとか、長く苦痛な作業に疲労して耐えるなどの効果があり、もっぱら軍が独占しました。
国は長年これを保管したのですが、第二次大戦敗戦後の混乱の中で、覚醒剤「ヒロポン」としてどっと巷に流れ出たのです。日本における麻薬・覚醒剤の第一次ブームでした。多くの人が、当時の差別語を使用すれば〝廃人〟になったのです。
けれどリタリンを処方していた子の投薬を止めてからは、大変でした。病院ですから、診察室を飛び出した子は、後を追いかけて取り押さえざるを得ません。さもないと、苦情が殺到します。
機械がいっぱいある検査室に飛び込んで、試薬をひっくり返した。トイレに紙を大量に放り込んで詰まらせ、水があふれる。輸血を運ぶ看護師とぶつかり、容器(当時はプラではなくビンでした)が割れて貴い血が廊下に流れ出た。
すっかり困り果てた私は、心理相談員たちが主催するキャンプに同行させてもらうことにしました。どうつき合えばいいか、学ばせてもらおうと考えたのです。今思えば、これがのちに精神科医に転身する第一歩になりました。
●自然の中で出た結論
自然の中でみる子どもたちの姿は、診察室とはまったくちがっていました。病院では手のかかる多動な子や衝動性の強い子も、自然の中では安心してみていられたのです。たとえば……。
多くは、水遊びが大好きな子でした。だからいちばん心配したのは、大波の打ち寄せる九十九里浜での海水浴や急流での川遊びです。
しかし、自然は偉大でした。プールとは大ちがい。ほとんどの子が波や流れの危険は直に察知し、安全な砂浜や川辺で遊びます。一緒に遊んでいると、彼らはただやみくもに多動なのではなく、しっかりした目的をもち、一定のルールに則って行動しているとわかってきました。
次々と新発見が起こってきます。
たとえば、「多動で車にはねられるのが心配で」などと、親が手を放して歩いたことがない子どもたち。それが、一部の子を除けば杞憂だと気づいたのです。大勢来てくれたボランティアたちとわいわい騒ぎながら、道路で自由に遊んでいる姿をただ見守ってみました。すると、走ってくる車の恐ろしさは十分了解していて、結構うまく避けるのです。
むしろ危険なのは、手をつないで縛られているのが嫌になって駆け出すとき。あるいは、危ないと思って道路の反対側から下手に声をかけて注意したとき。そんなことがわかると、次々とほかにも診察室では気づかなかったこと、謎だったことのヒントがみつかります。
なんでこの子はけんかっ早いのか、どんなときに奇声を発するのか、衝動的になったときはどう対処するのがいいか、自分の体を痛めつけたり傷つけるのはどんなときか、などなど。
何日も寝食をともにし、自然の中で一緒に遊び回っているうちに結論が出ました。障害を意識して身構えるのではなく、その子と愉しく遊び、その子のおもしろさを楽しむこと。それができればたいていのことは、だいたい解決できると(このエッセンスは第Ⅱ巻に書いたので参照してください)。
おかげで、その後の診療がぐっと楽になりました。病院に戻ってから、親から日常生活の様子を詳しく聞くと、キャンプで遊んでいた子どもの姿と結びついて、これまで謎だったことの多くが、すっと腑に落ちるようになったのです。〆