【ハッジ体験記】大巡礼とムスリム
ズル・ヒッジャ月が終わる今日まで、未だ精神が異次元に存在して肉体と別々のところに在る様な気がする。
この大巡礼(ハッジ)という体験は、魂ごと最強の波動を浴びて大洗濯された後に、地球で最高の不可視光線で照射され洗礼され、血液も体液も脱水機で抜かれ皺くちゃに乾燥後、アイロンで一気にプレスされた様な、言葉では言い尽くせぬものであった。
実に数週間のサウジアラビア滞在中、不思議な出来事が連発した。おまけに道中で病気になり、大巡礼は全うしたものの、観光や小巡礼はできずに床に伏してしまい、帰国後も回復できず、幸せな鬱病か夢の中に過ごしている。それは、よくあることだと言うが確かに、不快感ではなく別の宇宙空間から瞬間的に肉体だけ戻って、魂は異次元で交換され帰還した感覚だ。深く平安と歓喜と満悦に泥酔しているみたいに。幸福至極の中で、できるならば即刻再訪したいのである。
大巡礼の行程やノウハウは、ムスリムでない人もネットで調べ動画まで見られる時代になった。ムスリム大先輩も兄弟姉妹諸氏も周知であるから詳細は割愛する。
けれども、私自身は長年憧れ、日々念じていながら全くの勉強不足であった。本当に自分が大巡礼に参加できるとは思ってもいなかった為、正直なところ突然招かれた客の様な、驚きと信じられない気持ちであった。
アッラーから急に呼びたてられたが如く、物理的準備は整えたが、半分は引っ張られる様に十八年振りの海外渡航で興奮と不安の同時進行であった。苦しくも、渡航直前に大雨洪水災害に遭い、被災地支援に通ったり、娘の受験、息子達の状況への急変に加え、施設入所した母の世話や八十になる伯母の入退院の往来、外国人同胞の所用等で多忙を極めていた。東京までの距離もあり、大巡礼に行く心の準備ができていなかったのである。
ご招待に預かり、驚きと喜びも当初はその準備資金、事前申込み金とやらが無いと思ってやっぱり行けない、とあっさりあきらめていた。が、旅行会社から手続きの催促を受け、二度驚いて喜んだ。至れり尽くせりという恩恵に本当に感謝申し上げたい。アルハムドゥリッラー。
ムスリムとして、一生に一度できるならば行う義務としての大巡礼(ハッジ)を、一度もできずに死を迎える者も決して少なくない。せめてと小巡礼を一度、又は二度して生涯を終える人も多い。が幾度も小巡礼をする者、毎年大巡礼をする者もいる中で、私がこの大達成を幸いにもできる機会を得た事がにわかに信じ難く、そして有難いことであった。
私の経済状況も肉体も物理的事情も、更に精神的未熟さ、間違いと罪多き日常、知識不足にも増して怠慢と努力不足と己に対する不誠実さなど全てアッラーがご存知なら、大巡礼に行ける自分ではないとかねて自覚していた。
もし、東京がより近く状況が容易であったなら、各種講座や勉強会にも参加しアラビア語の一つでも学べたであろう、より多くの同胞と情報交換もし、知識の一つでも増えただろうに。田舎中都市の母子家庭で生活にひたすら終われるだけの日々、何一つムスリムとして完成できず、時間が過ぎ焦燥感の中で、疲労の睡魔に飲まれる毎日であった。
旅に同行した姉妹は、多くの資料や学び蓄えた知識や良識を備えた素晴らしいレベルで、アラビア語も学習された人達だった。
引替え私は、殆ど無知で一行に加わることになった。故に行く先々で大恥をさらす場面に出くわした。
ジェッダからマディーナへ訪れすぐに、美しい聖預言者モスクで感動しながら、迷子になりそうでひたすら姉妹の後を追いかけた。
又、クルアーン読誦の機会があり、大好きなタジュウィードを生粋の生声で聴けた感動と同時に、自分の独学ユーチューブ耳コピーの下手な読誦を、この聖預言者モスクで何章も読む事になるとは想像すらしていず、恥もかき捨て己に驚愕する時間となった。他国の姉妹達と現地の指導者先生と、同行の姉妹に下手なりにクルアーンを共有できた事のみがそれだけで満足だったので、鮮明な記憶となって焼き付いた。一期一会の、聖預言者モスクでファジュル礼拝とタジュウィードの時間、美しい高貴な装飾と清潔なモスク内外、静寂と高まる興奮を包括する甘い芳香、エキゾチックな美しい瞳と朗々と響くアザーン、清楚で情熱的な姉妹たちや備えられた大小のクルアーン、ザムザムの水、一面にしかれた絨毯と、そこに横たわる人々の安堵した寝息・・・。幾晩かそこに私も留まり、ホテルのベッドではなく、モスクの夜のカーペットで魂の安らぎに浸ったのである。
又、ラウダの緑色の絨毯の上で、2ラカートの礼拝ができたのも、想像外の幸運であった。
マディーナ滞在終盤のラウダは、世界中の人種の異なる女性達の大行列を数時間に渡り 待ちに待ったあげく、さらに抜かされ、押され踏まれ揉まれ、思わず泣いて大混雑の中で 同行の姉妹に激励され、礼拝を姉妹達の強い協力でやっとの思いでした後、出た時には放心状態で動機も収まらず、過呼吸になっていた。きっとこれも、アッラーの御計らいでの体験だっただろう。アルハムドゥリッラー。
ある晩後は人の流れるままについて行くとそこは、ジャンナトル・バキーであった。まるで今しがた愛する息子を亡くした様な、悲嘆と哀しみにむせる声が一帯に響き、涙腺が全部開いてしまった後、思わず立ち去り難く、できることならこの地に、このまま埋葬して下さい、現世は十分生きる事ができました、この地で私の預かった肉体を埋めてもらいたいと強く願った。
ウフドの山を訪れた際も、赤い土を見て涙が込み上げ、遥か遠い年月が経っているとは思えない、瞼の裏に鮮明にスクリーンが再生されてしまい、嗚咽をおさえるのにどうしたものか、と困ってしまった。
マディーナを去る日は、同行のシリア人姉妹と聖預言者モスクで共に過ごした後、二人で大泣きしてこの地との別れを惜しんだのである。いつか再び来れます様にと祈った。
マディーナのホテルでイフラームに入って、いよいよミーカートを通過した。
人生初のマッカは熱くて大きくてエネルギーの渦巻きそのものだった。
ベッドと冷房だけの簡素な四人部屋で、荷物をまとめ直してすぐ、タマットウの方法に従いウムラを行った。先導し案内してくださる大先生の元、タワーフもサーイもできた事を、心から感謝した。休憩も束の間、次はすぐ、ミナーのテントへ移動することとなった。
初めて目にする無数に並ぶテント、果てしなく続くように見える広大な 敷地、何度も小さなスマートフォンで見た写真とは全く印象が違うその乾いた空気や強い日差し、そして無数の人々。大きな六十人一家族の様なテント生活が始まった。
修学旅行やガール・スカウトとは全く異なる、唯一の神への信仰に基づく異文化交流国際テントは誠にタクワー(畏怖)とサブル(忍耐)無しでは 難しかっただろう。が何故か全く通じないウズベク語を傾聴して手を握り、共にアッラーを賛美しながら過ごす友を得たり、各々が祈りとタウバ(改悛)をし、寝食を共にし、知識を共有し、愛を感じる場と私には思えたのである。
大巡礼だからこそ、この巨大テント群の中で共同生活し、時空を超えてつながった人々の姿をアッラーから見せられている。ああこんな時に人の品格や育ちは、肌の色や地位、所有物に関係なく自ずと出るのではないか、そのイマーン(信仰)と性格が浸透する塩分の様に、各人から感じられ、アッラーの御計らいの元に学ばせられるのだろう。
ある夜に、嵐がテントを激しく吹き上げ、雨が降りこみ、テント布が捲り上がって暴風が入ってきた。暑苦しかったテント内が一気に涼しくなり、恵みの雨、まさに快適でまるで歓待を受けた気分をアッラーから頂いた。あの瞬間、私は楽しい気持ちだったのだ。姉妹の黄色い声を横目に、
を想起していた。ソブハーナッラー(アッラーに称えあれ)・・・
アラファの日、この一年で最高の日、最大の赦しの日、バスでアラファに入ったらすぐ大きなテントに案内され、フトバまで長い半日を過ごす事になった。
同行の姉妹とテントの外の木陰でタスビーフを繰り返しながら、ズィクルをし、素晴らしい時を過ごしていた。突然、呼びかけられ、偶然にも岡山で留学していたサウジ女性と再会した。
「こんな所で会えるなんて!」と親しかった日が蘇り、感涙で抱き合いながら、岡山から アラファにタイムトリップした二人になった。
又、別の巡礼団から来た日本人姉妹で、我が家へ訪ねてきた事のある人ともここで再会したのだ。アッラーファクバル(アッラーは偉大なり)!
フトバを聴き、アスルの礼拝の後、早くも次のムズダリファへ向かうバスへ、とバス停に集まることになった。スンナでは、マグリブの日没までアラファに留まり、その後ムズダリファの野営でファジュルまで、とある。次々とバスが来て淳に乗りこんでは移動していく同胞の後、私とある姉妹は最後尾にどんどんずれてしまった。が結果、アラファのバス停で日没まで赦しの祈念をし続け、更にアラファから沈みゆく夕日の絶景を目に焼き付けることになり、ベストタイムでバスに乗り込んだのである。
繰り返した多くの祈念を、唯一の神が全てきき入れて下さる日、ヤーラップ(わが主よ)、どうか私をお許し下さい、と幾度も繰り返した。・・・ムスリムとなってからの二十八年、この長い年月にどれだけ多くの罪を犯したであろうか、アスタグフィルッラー(アッラーに赦しを乞います)、人に決して言えない全てが、自分では赦せない深い傷が、醜い己の後悔が、アッラーにより赦されるのなら、そう思い涙が流れるままにムズダリファへ到着した。
写真集メッカ(野町和嘉著)で見た光景とはまた違うムズダリファを眺めた。きっと、千四百年前には、否、百年前にもきっと無かったであろう騒音と、空気と振動と光々と明るいライトの中、大型バスやパトカーか救急車か多くの車がスピードとクラクションで通過していく横で、砂埃と排気に紛れて礼拝し、仮眠の為に横たわる。しかし、一晩で肉体が反応し喉が痛く咳が出て発熱しだした。寝るに眠れず、苦難を覚えながらズィクルをしたり、共同トイレへウドゥーに行ったり、翌晩には小袋に詰めこまれた小石を配られ、自分で石を拾わずして、日昇を迎え、ミナーへ戻るバスを待つ準備に 入った。バス停で、長時間待った気がするが、喉の痛みと発熱でめまいまでして、立っても座っても苦しくなった。
パニックになりそうな自分に、「預言者の医学」という本の治療手段で、サダカという項があったが、思い出しつつ試練を感じた。
この聖地に立って、目前に広がる見た事もないほどの散乱したゴミ、去り行くムスリム達の姿、相変わらず聞こえる騒音、歩く限りない人達の行列、辛い己の肉体、全部が重なり 押さえきれぬ衝動に変わり、思わず目の前のゴミ拾いをせずにいられなくなった。
「ハッジ中は良し悪しの批判はせず、忍耐と祈念に集中してね」と姉妹が言及してくれたお蔭で、文句なしに無言で独りゴミさえ拾って行動できれば良い。アッラーこそ私の痛みをご存知あのだから。自分の中の答えが、明確だった。地球を聖域を汚すから、自らの血肉にかえり痛むのだ、汚す人間がいるなら浄化清掃する人間もいるべきだろう。
後ろから先述の姉妹も、手伝い始めてくれ又一人、と日本人ムスリムの 手が増え、一心不乱にゴミ収集をしたらやっとバスが到着した。フラフラっと、やっと乗車したら心地良い冷房と着座したシートに感謝し、このゴミや排気ガスや騒音に対し、環境浄化する方法はないのか、と心を痛めた。散乱したゴミは、政府の仕事と責任だから放っておけば良い。そう言った発言も哀しすぎると思った。「道から小石やとげや骨片(などを)取り除くこともサダカ」(ティルミズィー収録の伝承)なら、ゴミを拾うことくらいサダカと認識しないのだろうか。立つ鳥あとをにごさず、の美徳はイスラームではないのか。
私達ムスリムは、この地へ遥ばると来て罪を赦され祈りを聞き入れたりしてもらい、素晴らしい体験とサブル(忍耐)とアジュル(報酬)を得て、ニウマ(恩寵)を授けられ、ゴミを捨てて帰りゆく。
それでもアッラーから救済され浄化され赦されながら、私は汚染し食べ残して去って行く。アスタグフィルッラー・・・
ミナーのテントに戻れて一安心も束の間、次はジャマラートへ石投げに歩いて行く際、又も不思議な感覚へ陥った。きっと発熱のせいだろうが、足は勝手に前へ進み、背中は風に押されて、無意識に進んで行く。喉が痛いはずなのに、唱和されるタルビヤについて出てくる声、すでにアマーナ(信託)である肉体が動かされているだけの無意識な自分、シャイターンに投げる7つの石を握りしめて、先導の大先生にしっかりついて投石とドゥアーをやり終えた。優しい姉妹が共に歩いてくれたお蔭でその後のタワーフ・ル・イファーダもサーイもでき、もちろんその前の犠牲と髪切りもでき、さらに三つのジャムラでの投石も、二日間を完遂できたのは、本当に有難く、体力の限界や気力の限界をとっくに越えて、アッラーに動かされるまま動いた感じだった。
全てを使い果たした発熱状態の肉体は、ミナーのテントを後にし、マッカーの四人部屋へ戻ってきた。ようやく「一人前」の寝床とプライベートのあるトイレと洗面所で安心と安堵で思わずアルハムドゥリッラーと叫んだぐらいだった。ミナーとムズダリファはそれ程強烈な体験だった。
タワーフは、私にとっては静寂の中の動を体感しながら、無心に歩く自分と、原点そのものを想起させられ唯畏怖と畏敬の中、感謝せずにはいられない自分と廻り巡る渦の中にいる自分を遠くから感じる様な、表現できない感覚だった。できるならば、何度でもタワーフを繰り返したい。
サーイの緑灯下で小走りする所では、女性は歩いて通過するものの、ここを通る度に泣けてきた。自分の過去がーー子供四人を預けて仕事に県外まで走りまわり糧を得る為に右往左往もし、必死で走ってきた事が想い出されて胸が詰まったのである。一度のサーイで七回もその箇所で泣く。・・・ごめんね、母親として十分な事をしてやれなかった、金銭や感情に流され悪い見本にしかなれなかった、迷惑をかけ、事故に遭い、病気を患い、無駄遣いもし、子を傷つけ親不孝もした。アスタグフィルッラー・・・歩みの中、いろいろな思いが 駆け巡りタウバ(悔悟)ばかりが繰り返された。
マッカ最後の五日間は贅沢なホテルの高級ベッドに倒れ込む様に横たわった。正直、精魂尽き果てた発熱状態で、耳下腺と扁桃腺が両方腫れて、咳・鼻水・左胸部から右肩腕も痛み、頭痛も全身痛もあり寝込んでしまった。
救急隊員が来て下さったり、姉妹がベッド際までお見舞いに来て下さったり、ザムザムの水を運んでくれたり、優しさと親切な心温かな愛情をたくさん受け賜ったことに感謝している。多くの病気を経験したにもかかわらずこの地まで来れた上、大巡礼をさせてもらえたのは奇跡的出来事だし、十分生き長らえて今日まで-アルハムドゥリッラー-来れただけでも大感謝だと思っている。子供達も三人男児は成人し、娘も来年高校生だからしっかりして、もう大丈夫、ハスビヤッラーフルアズィーム(後はアッラーにおまかせする)と、念じている。
私の為に、わざわざ御足労下さり訪ねて来て下さったと、サーレ・M・サマライ博士が 部屋まで来て下さり、ご挨拶する栄誉に授かった。
大きく威厳と風格のあるヌール(光)に満ちたサマライ博士と、病気で情けない姿で声もガラガラの私が、サリームッラフマーン大先生と、レダ・ケネウィ社長(旅行会社エアワントラベル)と共に、接見できた事、貴重な資料を頂戴したことは、この上なく光栄なことであった。
スブハーナッラー、アルハムドゥリッラー。
更にもう一人。日本語達者なネット上の友人であるイエメンの同胞がジェッダから訪ねて来てくれ、初対面で私の最後の別れのタワーフに同行してくれることになった。病気でフラフラだった私は、やっと三周を自力で周り四周目から車椅子で、その友人の介助の元、七周を完遂した。ご馳走になりお土産までもらい、私が持ち帰れない荷を引き取ってくれ最後の日まで多くの方々に助けられ、アッラーの慈悲を身に染みて感じながらメッカを 後にした。
サラ 竹内千香子 著
(2018年9月9日)